日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

豚肉とネギのカレー粉炒め

これは自分が考え出した料理でもない。学生街の定食屋にはありがちなメニューかもしれない。しかし豚肉とネギのカレー粉炒め、というだけでそれ以上の詳細はわからない。

が、自分の中でこの料理の出どころだけははっきりとしている。それは小説、角川の文庫本だった。「恋人たち」とその続編「はましぎ」の二連作。作者は立原正秋。大学生の頃に友から紹介されて、貪るように読んだ。何度も読んだ。手あかがついて割れかけた2冊は今も書棚から離れない。立原正秋は純文学と大衆文学のはざまと言う立ち位置だったのだろうか。実際1960年代に芥川賞は候補となり後に直木賞を受賞している。

この二冊に関してはストーリーと言うよりも、青春群像劇の鮮やかさと、若さに宿るある種の残酷さ、そしてそれらを表現するための「美しい日本語」に満ち溢れていた。小説家として身をたてようとする主人公の「言葉を探す旅」。一見野放図な生き方の中から輝く真珠を見つけていくその姿に自分は魅了された。物語の舞台は一貫して主人公たちが住む鎌倉、湘南。自分にとっての湘南とは、この小説だった。

幼い頃に人さらいにあった主人公の弟。兄が見つけ出した時は鎌倉で女衒の元締めとして曖昧屋を生業としていた。そこは彼が築いた過酷な城ともいえた。そこでの生活が生き生きと描かれているあたりも印象深い。

このメニューはそこでの風景として描かれている。腐れ縁とでも言うかお互いに惹かれあっている女衒と男娼。主人公がある朝に弟を尋ねにその曖昧屋に行くと入れ違い。しかし男娼は愛する女衒のために朝食を作っていた。それが、「鉄鍋にぶた肉とネギとカレー粉を入れて炒めた」ものだった。

「朝からこんなに脂っぽいものを食べるのか!」という主人公の呆れた問いに、男娼は答える。「あたしのお尻の彫り物はこれを食べないと艶を失いしおれてくるのよ。」

小説の上とはいえ、想像のつかない世界だった。しかしそのメニューは自分に強烈な印象を残した。文章を読んでいるだけで生唾が出てくる料理と言うのは、これが初めてだったかもしれない。

初めて鉄の中華鍋と玉杓子を買ったのはこの料理を作りたいがためだった。ネギは玉ねぎだったか長ネギだったか覚えていない。

作者の記述だけで作ると匂いこそは大変美味しそうだが味のパンチに欠ける。やはり塩とうま味調味料が必要だろう。中華調味料を溶いたスープを少し混ぜるのも良い。そうやって長きの間に何度も作った。具もいつしか増えてきた。美味しいが、何かが違う。もはや「肉野菜炒めカレー風味」になってしまった。そもそも女衒と男娼の朝食だ。曖昧屋の厨房に沢山の食材が、調味料が、ましてや中華スープがあるとも思えない。もっと簡素な食べ物に違いない。お尻の彫り物の光輝を維持するためにはかなり油っぽいのかもしれない。

作者の著述を基本レシピと捉え、塩とうま味調味料、そして料理酒だけは手を加えさせていただこう。健康のために勝手ながら少しばかり油は減らさせて頂こう。自分のお尻には「彫り物」は無くとも「デキモノ」はある。あまり辛いと艶が出るどころか「デキモノ」が喜んで腫れてしまうだろう。カレー粉も塩梅を見なくてはいけない。

そのあたりの手綱を調整しながら作る。昔の鉄鍋はとうに錆びてしまい捨ててしまった。少し大ぶりのフライパンが今の友だ。これで、小説にある「女衒と男娼の様な腐れ縁」の夫婦の食事の出来上がりだ。

この年齢になり何度この小説を読み返しても、立原正秋の描いたレシピに手を加えフライパンを振っても、主人公のようには自分の「これからの生きざま」が見つからない。

青春群像劇を初老の男にあてはめるのも無理があるかもしれないが、主人公の様な勁さ、魂の自由さ、そして柔軟さは持ち合わせていたい。

小節の記載通りに作った。味付けは塩・うま味調味料・若干の料理酒とカレー粉。彩のためにパセリを一振り。

立原正秋著。「恋人たち」と「はましぎ」は80年代にテレビドラマ化されていたようだ。表紙の面々。誰ががどの役を演じているかはよくわかる。しかし映像で、この小説の持つ空気感や雄勁さが表現できたのだろうか。