日帰り湯に良く出かける。登山の帰りには必ず立ち寄る。温泉の湧く銭湯も最近よく行く。これは日常の中のリフレッシュだ。
当然だが日帰り湯と銭湯では客層の違いがある。日帰り湯は行楽帰りによることが多いので若い子連れなどの世代も増える。値段は千円を超えるだろう。街の銭湯は完全に地元に密着しているので年齢層は高めになるだろう。五百円程度で入れる。前者には備え付けのシャンプーやボディソープがあり、後者は基本自分で持っていく。風呂桶に小さな石鹸を入れてカタカタと鳴らすという、昭和のフォークソング「神田川」の世界だ。そんな風呂の象徴的な風景とは何だろうか?と朝っぱらから考えた。そんな時間から風呂の想像とはまるで「小原庄助さん」のように気楽なものだ、と自ら苦笑する。
もちろん男性の湯しか語れない。そこで女湯については妻の見識を借りた。
体を隠す事。日帰り湯ではタオル一枚を腰に掛けてガラリと入ってくる人も3割くらいいる。小指ほどの陰茎をプルプル言わせて入ってくる男の子などは非常に無垢だ。話題となっている某芸能事務所の元社長の気持ちの想像もつくが、やはりあれは異常性愛だろう。時に幼稚園児ほどの女の子も入ってくる。家族で行楽ついでに来るのだからありだろう。一方銭湯になるとタオルで前を隠すという人もいなくなる。地元だから虚飾は不要だ。女性は?と妻に水を向けると、良く分からない、そもそもジロジロ見ないから、と言う。
サウナでダラダラと汗をかくのも気持ち良い。悪い毒や疲れが出ていくように思える。サウナの後は水風呂となるが、自分は意を決して入った事は数度もない。好きな方はじっくりと入られている。
桶は「ケロリン」の黄色いもの。これがあると一気に気分が高まる。ほとんどの銭湯では見かける。たまに日帰り湯にもある。ただのプラスチック桶だが「頭痛にケロリン」と書かれていると嬉しくなる。しかし当の「ケロリン」をドラッグストアで見かけたことはない。どこで売っているのだろう。なぜ風呂屋に桶があるのだろう。
富士山。銭湯には欠かせなかった。学生の頃友人宅近くにあった銭湯にも書かれていた。しかし今は建物の建て替えも進み富士山の絵は見なくなった。絵師の仕事はどうなったのだろう。
妻によると銭湯の女性の風呂にはスポンジマット持参でそれを椅子の上に載せる人がいるという事だった。女性ならではの衛生上の事だろう。
彫り物について書くのはタブーだろうか?学生の頃の銭湯では彫り物をしているのは強面の方だった。多くの日帰り湯では「お断り」を書かれているが、銭湯には但し書きは無い。銭湯では見かけるが特に若い人が増えた。自分の行くエリアが京浜地区と言うこともあるのかもしれない。若い世代でも、胸から膝上まで見事に彫った方もいる。やはり威勢よく茶髪だ。南無阿弥陀仏と彫られた人もいた。盧舎那仏に帰依したいのだろう。妻によると女湯では首や腰、足首あたりのワンポイントの人も見かけるという。さすがに任侠映画での富司純子のようなパアっと肩から背中に牡丹が咲く人は見ないという。見事な彫り物ならばやはり目につく。ああやって自らを鼓舞するのか兄弟の契りかもしれない。好き嫌い・是非については書かない。ダイバーシティは尊重するのが最近の流れだろう。
しかし願望をいうのなら彫り物を施した人の「イチモツ」はやはり立派であってほしい。両者は正比例してほしい。しかしそうでもない。おお、と見とれる一対の彫り物とイチモツにはなかなかお目にかかれない。学生の頃に読んだ小説に、女衒のイチモツについて書かれていたもの(*)があった。彼はそれを毎日「竹べら」で叩いて鍛えたという。そこには自らと肌をあわせた幾多の女性の名前も彫ってあり、隆々とした時は全ての名前が花開き彼に愛をささやく、その様は見事だ、と書かれていた。女衒の厳しさとそれに耐えるための精神性を書きたかったのだろう。僕はそのイチモツよりも、それを描く作家の発想と筆に惹かれたのだった。
自分の日々は鍛錬とは無縁だ。病後すっかり動かなくなった自分の体とうまく付き合いながら過ごすだけだ。日帰り温泉・銭湯はそんな自分のスパイスになっている。しっかり動いて食べて風呂に入る。自分にできる事を小さく進めていく。
♪小原庄助さん 何で身上 潰した
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした
ハア もっともだ もっともだ
しんしょうが潰れるのは困るが、こんなのも「あり」だな、と思ってしまう。
(*)立原正秋著「恋人たち・はましぎ」