自分が移住した街にはアウトドア雑誌や山梨県の地元新聞社に稿をよせているライター氏が住まわれている。彼はバックパッカーとして日本中、いやアパラチアントレイルやオート・ルートをはじめとした海外のトレイルもバックバッキングで歩きそれを紀行として記事にされていた。その雑誌は自分が十代のころからの愛読書だった。
この街に引っ越して早い段階でライター氏が自分で建てたログハウスを訪れた。そこには旅人小屋と称し、彼と同様に徒歩や自転車などで旅をする人が安く泊まれる小屋もあった。又奥様がカフェを営まれている。僕はそこに彼が初めて出版した文庫本の第一版や幾つもの単行本を持って行った。サインをしていただいた。夢心地だった。
彼と同じ市内に住んでいる。市と言っても人口数万人だ。良く行くスーパーマーケットの地元の活動掲示板にチラシがあった。彼の最新版の出版記念トークショーが彼の自宅・兼カフェ・旅人小屋で行われるというものだった。
車でニ十分もかからない。予約のメールをいれて伺った。そこはライター氏の友人たちを中心としてバーベキュー会場にもなっていた。家族連れや彼のファンなどで五十人は居ただろうか。車で来たことを後悔したがそのおかげで僕は彼と少しばかり話す時間があった。自分の苗字は珍しい。そのお陰か前回サインを頂いた際にこの街に横浜から引っ越してきたことが何処かで記憶に残っていたようだった。それが嬉しかった。そこにとある出版社の編集長がいらした。彼の最新の図書はその出版社が版元だった。その出版社の名前は、自分達山歩きをする人間ならば必ず知っている出版社だった。
もう三十年も昔だろうか。当時港区芝大門にあったその出版社に自分は行った事がある。細長い建物だった。登山してはその山頂からアマチュア無線をやっている、そんな自分の行動記録をホームページにしていた。それを編集子さんが何処かで見つけ連絡があったのだった。自分と同世代の女性の編集子さんだった。自分が話した内容は記事になり、それは月刊山岳誌の中の記事として刊行された。そんな経緯を目の前の編集長に話した。
山と無線ですか?すると「あの会ですか?」と話があった。それは今自分が他の有志と共に新たに会の運営執行部として再スタートした会の事だった。なんとあの日本で一番有名な山岳雑誌の編集長が自分達のやっている会をご存知だったのだ。かつて取材されたとのことだった。
会を立ち上げた方は引退され今は自分達有志で継続している事を伝えた。編集長さんの名刺を頂いた。僕は少し考えていることがある。思わぬところで思わぬ知己を得た。どう進むかは自分次第だ。ひどく嬉しかった。
アウトドアの作家さんに挨拶をして去った。また秋にここに来る予定があることを話した。また会いましょうと言って頂いた。もう自分は還暦を過ぎている。そしてその作家さんは自分より数歳年上だった。
トークショウで彼はバックパッカーであるご自身についてこう話されていた。自分の背中のザックに収めたものだけで何日も何週間も山を歩き何があってもそれだけで乗り切らなくてはいけない。地球環境が変わっていく中でそんな原始的な事が大切だと感じていると。確かに山歩き、サイクリング。旅先で何があっても解決するのは自分だった。ミニマムな装備で生活をしていく。それは今自分が都会よりはやや便利ではない地に引っ越して、実感している。風の音を聞き、それが運んでくる澄んだ空気に触れ、揺れる林が作る色彩の彩に酔い、鳥のさえずりに身を任す事。それ以外に何が必要だろう?
帰宅してシャワーを浴びてウッドデッキでワインを傾けバッハの平均律を静かに流した。七月半ば。梅雨は明けた。しかしこの高原の外気温は二十三度で風は冷たい、果たしてこれが現実なのかとしばし疑った。どう生きようと長くて数十年。さまざまな事を知り。知己を得て自分の中で何かかが広がって行けばよいと。
このブログのタイトルは「日々これ好日」だった。ブログを始める時に考えて付けた題だが、書き始めて三年経ってからようやくその意味が分かったように思えた。