別れの音楽 - 日々これ好日

この世から別れたときにどんな音楽が流れたら自分は嬉しいのだろう。そんなことを考えるのは今自分がこうして入院をしているからだろう。それは重篤な病ではなく、酒席でひどく酔い道路で倒れて頭を打った、そんな笑い話にならぬ、なんともお粗末な顛末だった。頭骸骨は固く、脳を守ったがそれでも外傷と内部に血腫が出来た。外傷性くも膜下出血と言う名前を医師は口にした。この血腫の行く末を見るために一週間ほど入院が必要となった。

病棟は心臓血管内科と泌尿器科の患者だった。そこに道路で転倒し頭に傷を負った人間が同居している。苦しそうな声が四人部屋に響き、痰のサクション、下半身洗浄、そんな音が聞こえる。廊下を歩くとある部屋からはひどく単純なひらがな四文字が、絞り切って水が出なくなったタオルをさらにねじったような声音で聞こえてくる。それはこう言う。「た・す・け・て」と。

僕は三年前に入院していた癌病棟を思い出していた。白い壁、緊張感漂うスタッフ、風景は何も変わらない。それは不思議なことに自分に我が家に帰ってきたような安堵感をもたらす。それほど病室は自分になじんでいた。心臓や泌尿器の病はもしかしたら外科手術とカテーテル治療や投薬で快方に向かうのかもしれない。それでも今の自分に比べてはるかに重篤であることには変わりがない。

癌病棟にせよ循環器・泌尿器の病棟にせよ、波打ち際までの距離に差はあれど「死」は遠くない。それは三年前の自分の半径三メートル以内の日常だった。

ベッドで横になっているのも暇なもので、僕はかつて読んだであろうWEBサイトを思い出していた。それは「自転車文学研究室」というブログを掲げている作家さんだった。僕は彼の著作を四冊持っている。ランドナーと言う古いイディオムに則ったフランス風の鉄ホリゾンタルフレームの自転車。そんなクラシックな自転車の紹介でありサイクリングの指南書であり、それによる旅の文筆だった。

そのブログは彼のリリカルな感性と世界観を味わる。好きなものだった。彼と自分をつなげるものがあるとしたらランドナー、それにたまたま好みが一致したバッハの音楽だった。作家さんの描くバッハにまつわる話は自分よりはるかに少ない言葉と豊かな修飾語で端的に魅力を書き上げる。流石だった。そんな彼の一文にこんな文章がある。「私が死んだらこの曲をかけてほしい」と。そのあとはバッハの作品が挙げられている。平均律クラヴィア曲集下巻第18曲BWV887からのフーガ。なるほど。僕も好きだ。これ以上はそぎ落とせない音数でたゆたうように精緻な建築物を造形している。僕はそんな前奏曲が好きだが彼はそれに続くあの静謐に満ちたフーガが好きなのか。

死に伴う音楽。そもそも死んでしまったら肉体はただの無機物となってしまい色も音も匂いもすべてがそれの包み紙の役割しかしない。そこに音楽を求めるのだろうか。あるとしたらこうだろう。死の席に居て何らかの儀式に参加する、そんな故人を知る人。彼らにその音楽を聴いてもらい去っていった人を思い出してほしい。あなたのあの人はこんな音楽が好きだったのよ。思い出してね。レクイエムでいえばレコルダーレのような役割。そんな去り行く人の最後の我儘なのかもしれない。

自分の人生の幕引きは予定していない。しかし今回のようにいつ半径三メートルを飛び越えるかもわからない。そんな時に備え自分も最後の我儘を書くとしたらどうなるだろう。ただ一つを選ぶのなら。

自転車文学の作家と同じだろう。バッハの平均律を選ぶ。フリードリッヒ・グルダの演奏で。下巻第24曲BWV893、それもフーガを。欲張りを許してもらえるのならあとレクイエムから二つ。モーツァルトからレコルダーレ(思い出したまえ）、フォーレからリベラ・メ（赦したまえ）。死んでなお思い出してほしい、更に許しを得たいのか。自分はどんな日々を送ったのだろう。