日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

葉の花のおひたし

季節のものに反応するようになったのはやはり歳のせいだろうか。

春と秋は嬉しいもの。土地の恵みを味わう季節だ。息吹の春は山菜や野草。恵みの秋は野菜全般、きのこも良い。

季節を感じるかのようにそんな恵みを戴く時に思うようになった。「ああ、また新しい季節が来た。そしてその恵みを楽しむことができた。なんと素晴らしいことだろうか」と。

実際冬が明けて春の兆候が見えてくるのは嬉しいものだ。苦味を伴う春の野草たちが食卓にあがると心が躍る。茹でてよし揚げて良し炒めて良し。春はそんなほろ苦さとともに確実に近づいてくる。

10年に一度か、と言われる大寒波が列島を覆ったようだ。雪に苦しむ人々のニュースがテレビに出てくる。こちらもどうなることか、大目に買うか、と厚着をして出かけたスーパー。そこで家内が見つけた黄色い花のついた野草。菜の花だった。たちどころにスイセンと菜の花に彩られた千葉の山里の風景が頭に浮かんだ。その菜の花も千葉産だった。

外は凍てつく夕べ。房総の春をひと足早く頂こう。一番美味しいのはありのままに茹でることではないか。それではこれは「おひたし」としよう。茎を先に、花はあとで。少し塩を振って茹でた。千切りキャベツがあったのでその上に載せて鰹節を振った。

正解だった。甘さと苦みが口に広がった。寒波の中にほろ苦い春がやって来た。四月を春とするならば二カ月早く我が家にやって来た。それはなんとも嬉しい便りだった。

季節ものに反応すのは「歳のせい」ではなくむしろ「年の功」と思うようにしよう。すると年齢を経るのも楽しいものとなる。

カットキャベツがあったのでその上に菜の花のおひたしを載せ鰹節を振ってみた。甘くて苦い。春の香りは嬉しいものだった。

・菜の花のおひたし
レシピはこちらを参考にした。惜しげもなく秘伝の技を開示して頂く皆様に、謝意。https://cookpad.com/recipe/1080185

 

 

追憶の百名山を描く(12)・塩見岳

●始めに: 

日本百名山深田久弥氏が選んだ百の名峰。山岳文学としても素晴らしい書だが、著者の意とは反して、このハントがブームになって久しいようだ。自分は特に完登は目指していない。技術的にも気力的にも出来ない山があると知っている。ただ良い指標になるので自分で登れる範囲で登っている。可能であればテレマークスキーも使う。この深田百名山、無理なく登れる範囲をどこかで終えたら、あとは自分の好きな山を加えて自分の中での百名山にしたい、その程度に思っている。

自分が登った懐かしい百名山を絵に描いて振り返ってみたい。いずれの山も、素晴らしい登頂の記憶が残っている。時間をかけて筆を動かす事で、その山行での苦しみや歓び、感動を、まるで絵を書くようにゆっくりと思い出すのではないか、そんな気がする。そうして時間を越えて追憶の山との再会を果たすという訳だ。

● 塩見岳(3052m・長野県伊那市静岡市葵区

東京神田神保町。登山用具店が軒を並べる。数は減ったが未だに何軒もの老舗がある。そんなはしごも楽しいものだ。山用具は安全・使い易さ・軽量化・高機能をベクトルの向きとして進化している。しばらく行かないと置いてけぼりで、目新しいものに目が釘付けになる。棚の無料パンフレットを手に取った。「信州・山のグレーディング(発行:長野県山岳遭難防止対策協会)」という折り畳み紙。広げて思う。まこと信州・長野は山の県。

パンフレットのグレーディングとは技術的難易度AからEまで5段階を横軸に、体力度を1から10段階を縦軸にマッピングしたものだった。E10が最難関、A1が一番易しい、最難関のE10にランクしたのは無くE9に北穂から槍ケ岳への大キレット、E7に前穂から北穂への穂高縦走が挙げられていた。次点のD10、D9を見て唸った。赤石岳聖岳荒川岳悪沢岳)、塩見岳南アルプス中部南部の3000m級がずらりと勢ぞろいしていた。

初めて北岳の山頂に立った時、その南部に連なる山の塊に呆れを通り越し畏れを抱いた。山は重畳と重なり合っていた。南北に長い南アルプス主脈の最北のピークが北岳で、そこから長い山脈は天竜川水系に寄り添って太平洋に落ちるまで果て無く続くのだった。南アルプス赤石山脈。そういわれる盟主・赤石岳は日本第二の高峰である北岳からでも見えないのかもしれなかった。あそこへ行ったらもう無事に帰ってこれないのではないか、そんな怖れを感じたのだった。

それから機会を改めて何かに憑かれたかのようにそんな南アルプスの中部南部を目指した。北岳から明瞭に視認できる最南端の山は塩見岳だろうか、その奥は遠すぎて一本の線になってしまうのだ。

塩見岳は遠かった。北岳の肩ででテントを張り、翌日は塩見岳に近づく日。日本第二のピーク・北岳と第四の山・間ノ岳を歩き塩見岳を目指す長い仙塩尾根を歩くのだ。登山口から間ノ岳まで歩くペースが近かった単独行と、時折話しながら歩いたのだった。年齢は自分に近い彼は折を見てはスケッチブックを開いていた。農鳥岳を目指す彼とは間ノ岳の山頂でお別れだった。彼は南へ自分は西へ。刹那の友であったがお互いの行程の無事を祈り手を振って別れた。少し寂しさを覚えたのはいくばくかの感傷に加えこの先の長いルートで自分を待つであろう孤独感もあったのだろう。

ハイマツのくぼ地にテント場があった。海抜2500mを超えた稜線でありながら冷たくて豊富な流水が出る熊の平は別天地と言えた。

朝日を浴びた塩見岳の姿を説明する形容詞を自分は持ち合わせていなかった。深田久弥の本に書かれているように「漆黒の鉄兜」が遥か稜線の先にドンと構えていた。北面のバットレスが人を寄せ付けないかの如く威圧的だった。あの頂上に今日立つのか、そう思うだけで身震いがした。歩けども歩けども近づかず。風景に変化が無いとはこの事だった。

脆い岩質だったと思う。注意深く登って塩見岳の山頂に立ったのは午後も遅かった。ここから遥かに眺める北岳がまた素晴らしかった。旅の起点はあそこだった。

三伏峠の小屋まで進んで、小屋への素泊まりとした。その晩は夕立が激しくテントをやめたのは正解だと思ったが、疲れ切ってテントを張る気力が無かったというべきだった。翌朝長い下り坂を降りてバスの来る谷に至った。飯田線に乗り中央本線経由で家路についた。首を捻じ曲げ塩見岳を車窓から見ようとしたが、余りに深い場所にあるあの山を見ることなど甲斐なしだった。

パンフレットの難易度E8、全くその通りだったと四つ折りの紙を閉じながら思った。あの立派な鉄兜を再び眺めてみたいものだ。もうあの行程を歩けるとは思えないが何処かに楽に行ける知られざるポイントは無いだろうか。地図を広げながらそんな空想をすることも楽しい。

熊ノ平で迎えた山旅三日目。朝露に濡れたテントを片付けながら長い尾根のその先に「漆黒の鉄兜」を見た。その余りの遠さに畏れ入った。今日、あそこに立つ。

 

悪い癖が出ました・エクセル好き

表計算の定番ソフト、エクセル。会社生活を始めたのは1986年。当時オフィスには国産コンピュータが数台あるのみで、理系上がりの先輩がちょっとプログラムを組んで売り上げデータを入れたのだろう。「おー!」と課長をも含む皆から嘆息が漏れた。兎に角数字が画面に出る事と、訳の分からないプログラムを組んで管理データを作った先輩の手腕の両方に対しての、ため息だった。

表計算ソフト・マルチプランを使い売り上げデータの管理。MS-DOSのコマンドを覚えれば割と容易だったが分かりづらかった。PCの世界が身近になったのはWindows95ではないだろうか。1995年に世に出たこのOSから世の中は大きく変わったのではないか。その前のWindows3.1は完成度が低かったが95でようやくGUIも板についた、そんなところだろう。もちろんマッキントッシュはもっと先を進んでいたが。

社内にずらりとPCが並んだ。一人一台が当たり前になった。仕事のツールとしてEメールが普及するのはもう少し後だったかもしれない。通信手段としてのテレックスはその地位をファクシミリに譲っていた。ビジネス文書はWindowsのワードで作り印刷してファックスする。そんな時代もすぐにネットの普及とともにEメールに変わった。ワープロの出番は減った。

しかしエクセルは別の世界だった。表計算。グラフにもなる。社内の報告資料に事業計画の策定に不可欠だった。データの推移など一目瞭然になり、売上実績も利益率も時系列の折れ線グラフで並べられては言い訳のしようもなかった。ワードを使わずにこれがあればビジネス文書も作れる。

営業部門から管理部門、企画部門へ。キャリアの推移とともにエクセルの比重が高まった。一日中PCのモニタはエクセルだった。しまいにはこれさえやっていれば「仕事をしている」気になるのだから罪深かった。さらに「凝ろうと思えばいくらでも凝れる」のもエクセルの悪い所だった。

仕事を離れ、エクセルで何かを分析したり誰かにデータを説明したりする必要もなくなった。毎日使っていた「Xマーク」のアイコンは縁遠くなった。毎月末になけなしの資産額を残高表に入力、家内にシェアするだけ。また生涯のキャッシュフロー推測を更新する程度。この推測の際にはターミナルバリューを考えなくてはいけない。自分の寿命がいつ果てるかを決めるか?仮置きで85歳にした。横軸はいくらでも伸ばせるのでもはや卓上の遊びだった。又、通貨価値の下落も考えなくてはいけない。精緻にやろうとディスカウントキャッシュフローにしてしまうのも悪い癖だった。

退職してからはエクセルは手慰み。しかし病にかかり治療が終了すると格好のネタができた。血液データ。最大の心配事である悪性リンパ腫の状態を探る可溶性IL2Rの値。いつもしきい値の下で安定しているので毎月安堵するだけだった。気になる血糖値、コレステロール中性脂肪、尿酸、肝臓系、すべて良好。しかし暴れるデータも目についてきた。悪玉コレステロール。数か月ほど上限値を超えていた。

これは・・。スイッチが入ってたちどころにエクセルのアイコンをクリックした。更にグラフまで作ってしまった。グラフは全てを示してくれる。悪玉コレステロール値はスポラディックに上昇している訳でもなく、12月から1月に時間をかけて上昇している事も丸見えになった。なんだろう、これは!食事には気をつかい適度な運動はしているつもりだが…。お正月料理の食べすぎなのか。

エクセルは便利だが、ヴィジュアルな結果に追い詰められるのは現役時代で十分だ。今はエクセルに軒を貸して母屋を取られても仕方ない。悪い癖だ。これがもとで心配のネタが増えては元も子もない。エクセルは時系列のデータ入力だけのおつきあい。グラフにするのはやめておこう。

エクセル好きもほどほどに。何事でも、凝り性は良くないという訳だ。

コレステロール中性脂肪。気になる。グラフは噓をつかないが追い詰められたくもない。深入りせぬようにしなくては。(データは仮値)

 

病の意味

あれは寒い夜だった。

ずっと頭に違和感を感じていた。再就職した新しい仕事の研修でも集中力に欠けた。ある日歩行中に転倒、その夜は食器を落としてしまい、慌てた妻は救急車を呼んだ。即座に取ったCTで脳腫瘍を告げられたがその辺りの記憶は混然としている。今日であの晩から丸二年が経ったことになる。半年を超える治療を経て、今がある。無我夢中だった。

病の事はいつも頭にある。再び来るかもしれぬという怖れは今の自分の思考回路や行動力の根底に居座ってしまった。毎月経過観察するがそれが全てを解決してくれるわけでもない。しかしくよくよするわけにもいかない。共生するしかない。そんな日々だ。

クルマを運転しながら、隣に座った家内に話しかけた。「ねえ、どう思う?結局自分の病にはどんな意味があったのかな?」と。

すると家内はこう言った。「人と繋がり、繋げるためだったのよ」。そして付け加えた。「繋がったからもう病は来ないよ」と。

言われてみたら確かにそうだと思った。趣味の仲間に加え、学生時代の友人、会社関連の方々…。病床でやったことといえばそんな方々への連絡。話したい、会いたいと思った人たちと急速にコミュニケーションを取った。そして長きのブランクを経て多くの人たちと再会を果たした。いつしかそんな人々はいくつもの輪になった。それは無意識のなせる技だった。そんな友とのつながりが病から立ち直る気力になった。その意味で、病の「ちょっかい」は用無しになったのだ。

病は確かに自分から仕事を奪った。長きその治療で再就職は無かったことになった。今頃はとある町のオフィスで毎日人と面談していただろう。やりがいのある仕事のはずだった。それは無くなったが、代わりに気楽に付き合える世界が増え大きくなった。人々と繋がり、様々な価値観や考え方に触れ刺激を受ける。そこから新しい何かが生まれる。

「繋がっている」。今の言葉を使うならば「Being Connected」だろうか。IOTの世界ではコネクテッドはインターネットにつながっている事、となる。しかしつながる相手はインターネットばかりではないだろう。その本質は「インターネットを手段として社会や人にシームレスにつながる事」と考える。

インターネットにつながった機器、クルマ、家、すべては人の生活を過ごしやすく豊かに楽しいものにするためのもので、それは手段ではないか。豊かさ・楽しさのゴールは自分がネットワークつまりコミュニティ、社会の一部にあるという再認識と、そこでの営みの上に生きがいを見つける事だ、と思う。コミュニティは大切な友人ばかりでなく、社会全般、更には自然や大地もそこに含まれまいか。生きがいと書くと大上段になってしまう。やりたいと思ったことを見つけ、失敗を恐れずにやりとげ、振り返る。そう思えば気楽な話になる。何をやるにせよコミュニティとのかかわりはかかせない。いつも必ず何処かでコネクトされているわけだ。

会社生活では感じ得なかった事。この年になってはじめてわかった事。大切なコミュニティから得たヒントをもとに自分らしさを加えて何かをやっていく。有形無形・自己満足でも良い。これからもそんなつながりの輪を太く広くしていくのは、自分自身。なんとも自由で夢のある話ではないか。

その意味で家内の一言は正鵠を得ていた。ぼんやりとしているように見えて意外に本質を突いている。これも家族という最小限のコミュニティで共に繋がっていたからわかったのだろう。

自分の場合、繋がることは生理が、本能が求めた。サケが川を遡上するかのように。小さなものでも良い。今後も繋がりを少しづつ増やしていく。そう思うと自分の病には意味があったのではないか。

病の意味などできればこれ以上考えたくもないものだ。前向きに捉えればすべてが良い方向に回っていく。そう信じたい。

腫瘍摘出し目覚めたら無機質的な集中治療室だった。隣のベッドからは苦痛の声が漏れ、自分もせん妄に悩まされた。

 

入院して点滴の日々。今思えばそこに大切な意味があったのかもしれない。

追憶の百名山を描く(11)・丹沢山

●始めに: 

日本百名山深田久弥氏が選んだ百の名峰。山岳文学としても素晴らしい書だが、著者の意とは反して、このハントがブームになって久しいようだ。自分は特に完登は目指していない。技術的にも気力的にも出来ない山があると知っている。ただ良い指標になるので自分で登れる範囲で登っている。可能であればテレマークスキーも使う。この深田百名山、無理なく登れる範囲をどこかで終えたら、あとは自分の好きな山を加えて自分の中での百名山にしたい、その程度に思っている。

自分が登った懐かしい百名山を絵に描いて振り返ってみたい。いずれの山も、素晴らしい登頂の記憶が残っている。時間をかけて筆を動かす事で、その山行での苦しみや歓び、感動を、まるで絵を書くようにゆっくりと思い出すのではないか、そんな気がする。そうして時間を越えて追憶の山との再会を果たすという訳だ。

● 丹沢山(1673m(蛭ケ岳)、神奈川県相模原市他)

何事も初めての経験は印象深い。山らしい山として生まれて初めて登った山は、大山(1252m・神奈川県伊勢原市)だった。丹沢の前衛の山だ。小学校六年生。担任の先生は山の好きな方で、休日にクラスの有志を募りそれに参加した。小児喘息を引きずり体育は見学で過ごすことが多かった自分も参加した。それは当時好きだった女子(あき子ちゃん)が参加するからだった。蓑毛のバス停から登りヤビツ峠経由で山頂へ。下りのケーブル駅までの道も憧れの女子と一緒だと楽しいものだった。「下りは膝が笑うね」とあき子ちゃんは言った。膝って笑うものなのか。あき子ちゃんすごいなぁ。辛かったがとても良い印象を残した。自分でも登れた、そんな達成感もあったのだろう。岩手の遠野出身の担任の先生は学生時代の学友と2名で、パーティを組んだ。今思えば、学童10名程度の引率は心配だったのかもしれない。

大山は大学のキャンパスのすぐ裏手に大きかった。自分の学年から教養課程が厚木に移ったのだった。新造の校舎から見る大山に雲がかかれば雨が来る。そう言われていた。「雨降山」というのも頷けた。懐かしいな、とあき子ちゃんに憧れていた少年時代の自分を思い出したのだった。

成人して初めて山らしい山を歩いたのも、また丹沢だった。それは結婚して住み始めた部屋から毎日のように眺める山並みだった。ヤビツから表尾根に入り、鎖場にたじろぎ、果てぬ上り下りに消耗して塔ノ岳。とてもテントを張る気力はなく山頂の小屋に泊まった。そして鍋割山を経由して大倉に下りた。小屋から見た明滅する関東平野の眺めには打たれた。大倉に歩くまで心を満たしたのは充実した達成感だった。これを手始めにして、丹沢の主だった大きな尾根はほぼ歩いた。誰も居ない尾根道でのテント泊は動物の気配が濃厚でいつも熟睡できなかった。実際鹿は多く、時にクマの気配も感じた。そんな丹沢も5月は格別だ。トウゴクミツバとシロヤシオツツジの美しさを知ったのも丹沢だった。バイケイソウの咲き乱れる檜洞丸の山頂は別天地。また全山を通じ秋のブナの紅葉も、軽アイゼンを履く雪の尾根道も捨てがたかった。

丹沢と一口に言うがとても広い。西の端は山中湖の東端まで続くと言ってもいいだろう。この巨大な山群を一目で見る事は出来ない。相模川から見れば前衛の大山、その奥に主脈を見る。南から北へ、塔ノ岳・丹沢山・最高峰の蛭ケ岳。ここまで長くせりあがりながら、頂点の蛭ケ岳からは長い背中を更にゆっくりと北に伸ばす。焼山の高まりを持ってその山脈は相模川が作る谷に力尽きて消えていく。当然主脈から西へ伸びていく西丹沢の山々は見えない。一方山中湖から見れば丹沢主脈は見られない。西丹沢の重鎮たる檜洞丸もまた見えない。北からはどうだろう。中央高速から見れば、最北端の秀峰・大室山を見るだけだ。ドローンでも駆って海抜2500メートルあたりまで上がれるだろうか。するとこの巨大な山々の全貌が、驚くほどの複雑さを持って見えてくるだろう。その尾根の多くに懐かしさがある。

懐古の情からか、昨年の晩秋に友と丹沢主脈を歩いた。30年振りだったかもしれない。何時も素通りしていた神奈川県の最高峰の山小屋で一夜を過ごした。西に向いた凍てついた窓の向こうに富士が残照に黒い影を作っていた。

機会を作り丹沢以外の幾つかの山にも登ってきた。丹沢よりきつい山も当然あった。しかし神奈川県に住む岳人にとって、丹沢は特別だろう。卒業した我が小学校の校歌は「♪ 丹沢・箱根・富士の空、夕日に映えて夏の日も、冬の日も…」と続いていた。馴染まないほうが無理だった。

丹沢にはまだまだ未知の尾根も多くある。知らない地には好奇心が湧く。知った尾根もまた懐かしい。我が身の心と体のバランスを考えて、またいつか歩く日は、きっと来るだろう。

相模川から丹沢を見た秋の日。最前列に遠慮なしに大きな大山の裏手に、丹沢の主脈は長く南北に続く。しかしここからは見る事の出来ぬ西への広がりも忘れてはいけない。全く呆れるほど大きな山には、校歌を歌った幼童の事からいつも親しみを感じている。

 

熱意の塊

年末になると何故か耳にすることが多いベートーヴェン交響曲第九番。単に「ダイク」と呼ばれる。最終楽章の中のほんの一部に過ぎない合唱「歓喜の歌」のみが街に流れ電波に乗るが、第1楽章から緩徐楽章もすべてを通して綿密。非の打ち所がない。第一楽章から最後までじっくり聞くことであのパートの意味がある。良いとこどりのつまみ食いはもったいない。

季節と紐づけされた流行りものの位置づけなのだろうか、新年を迎えると街から消えるのも寂しい。かく言う自分もさほど聞くわけでもない。なにせ70分を超える演奏時間。通して感情移入するとやや疲れる。アドレナリンが過剰に出るのだろう。

代わりではないが例年1月から春に向けてモーツァルトを聞く頻度が増える。新しい年、春を待つ季節。何やらウキウキするからだろうか。明るいモーツァルトの音楽はそんな喜びの手助けになるように思える。どっしりくる交響曲を聞くことが多い。41番ジュピターの堅牢に輝くフーガはまこと新年を迎える気分としてふさわしいし、38番「プラハ」は対位法が際立ち広がりと豊かさを、39番は踊る気持ちを自分にくれる。軽快な34番、壮麗な35番「ハフナー」、豊かな36番「リンツ」も忘れてはいけない。今年は久しぶりに聴いた31番「パリ」の低音旋律に新しい美しさを感じ、何度も聴いた。

バッハの作り上げた音楽の基本ともいえるグラマーも息づく。明るいだけではない。その根底に常に透明な悲しみがある。明るさと哀しさが同居した彼の音楽はいつも自分に新しい気づきをくれる。

交響曲、協奏曲、室内楽、器楽曲、オペラ、合唱曲…。様々なジャンルに数え切れぬ作品がある。とてもその全てには手が出ない。彼はなぜこんなに多くの作品を作ったのか。能力は天与と努力だろう。しかし熱意は自発のもの。その熱意の源を知りたいと思う。

バッハも多作だが、教会付きのオルガニストと音楽長でもあった彼のモチベーションは「神への祈り」と「音楽理論の構築・フーガの追求」にあったのではないか、と素人なりに勝手な想像はできる。多くの教会カンタータを書き、辞典のような「平均律」や「フーガの技法」を大成し、キリストの受難を描いた最高傑作と言われる「マタイ受難曲」を残した。

モーツアルトは宮廷付きの職業音楽家でもあった。金銭だろうか? 軽いサロン的な音楽も、通俗的なオペラも書いた。世俗的なものが彼の動機ならば音楽はもっと不透明であったはずだがどうだろう。彼の白鳥の歌は未完に終わった「レクイエム」だ。透明な悲しみの極みといえる。

モーツァルトはやはり何かを表現したくて仕方が無かったのだろう。もっとその音楽に向き合わないと熱意の源は自分には想像もできない。惜しむらくは天は二物を与えず。35歳の若さで世を去った。その中で情熱の限りで曲を残した。熱意の塊は短く、太く輝いたともいえまいか。

壮麗なモーツァルト交響曲第41番「ジュピター」を聞いて、「嗚呼新年を迎えた。今年こそこれまでにまして良い年であるように」と呟いて迎えた新年。それもあっという間に月の下り坂を迎えた。半月過ごして、何の成果も出ていない。睦月は終わり如月へ、弥生へ。そんな中、自分は何かを残しているのだろうか。このまま翌年の元旦に再び「ジュピター」を聞くときに、何か満ちたる気持ちが自分の胸に去来するのか。

自分のこれから…。何に焦るでもないしその必要もないのだが、うかうか過ごすのもぼんやり日が経つのももったいない。そんな思いがある。大した事でもないがおぼろげながら何をやりたいかは浮かんでいる。取るに足らない「やりがい」といえるかもしれない。それをゆっくり形にしたら次の事を探す。体は無理が効かなくなった。何をやるにもペースも限られる。焦りはストレスを生む。

何事も今の自分・体と正直に向き合い話してみる。ゆっくりと対話するしかない。しかし自分なりの小さな「熱意の塊」は大切にしたい。そんなことを、夭折の天才が残した数多の作品群を聞きながら想う。


動画サイトより:モーツァルト交響曲41番「ジュピター」。カール・ベームウィーンフィルの残した素晴らしい演奏が残っていた。敬愛するベーム翁も素晴らしい録音を世に残してくれた。デジタルアーカイブに感謝。
https://www.youtube.com/watch?v=863BQEFb9kY

意図しているわけではないが・・・モーツァルトのシンフォニーは愛するカール・ベームの録音が多い。ウィーン・フィルと、またベルリン・フィルと組んで素敵な録音を残してくれた。お陰様で、自分との対話をすることができる。ありがとうございます。

 

スープカレーは癖になる?

ラーメンとカレーが日本人の二大国民食という話もよく言われる。何故だろう、自分はカレーとは縁が薄かった。カレーライスという食事は、おかずらしいものがない。なんだか手抜きの極み。申し訳程度の具材にカレー粉とメリケン粉だろう?そんな風に思っていた。オフィスで仕事をしていた頃も周りにあったカレーのファーストフード店も入ったことは数えるほどだった。同じ金を払うなら少し足してでもどこぞの定食屋に行きたいものだ。

イギリス出張でインド人の作るインドカレーを食べて、タイ出張で現地のカレーを食べた。これらは純粋に美味しかった。これらは異国の料理という位置づけで、なにか違う受け入れ方が出来たのだろうか。以来インネパ料理・タイ料理は時々食べる。しかしカレールウを割って作るドロリとしたカレーは滅多に作らないし、食べない。

とあるきっかけがありスープカレーなるものを食べた。一人なら決して行かない店だがバンド仲間との待ち合わせがそのスープカレー屋だったので否応なかった。

まぁドロリとしていないから、いいかな。その程度の期待だったが、これがなかなか美味しかった。まさにスープで、サラサラとしている。具はゴロゴロと野菜の実体感があった。これはいわゆる国民食に位置づけられるカレーとは別物だな。

そんなことで、一度トライしてみた。

初めて作る料理は手際が悪い。手順もネットを見ながらだから時間がかかる。なんとかやっつけでやってみた。作る途中で何度も思った。「あぁ、めんどくさいな。もう二度と作るまい」

実際に煮込む前に炒めたり素揚げしたり、と手間がかかる。しかし食べてみたら家内と共に顔を見合わせた。美味しかった。プロの味ではないが、今まで未経験だから目新しいだけかもしれない。しかし手際が分かった。食べ終わった後は、「もう一回、具を替えてやってみよう」と言い出す始末。癖になったのだろうか?

結果的に二名で三食分のレシピ。

1・具材と下ごしらえ
①鳥肉(安いもも肉)150グラム程度・・サラダ油で予め焦げ目付ける。塩コショウ。
②玉ねぎ2/3個・縦切り(繊維の向き通り)・・予めサラダ油でクミンを炒める。香りが立ったら投入し半透明になるまでじっくり炒める
③人参1/3本、ダイコン1/4個、ジャガイモ1個・・火の通りをよくするためにレンジでチン。600Wで2分程度 大きめにカットする。茄子2本、ピーマン2個も大きめにカット、ジャガイモ以外は軽く素揚げする。
④ゴボウ1/3 酢水でアク抜き、大きめに切る 

2・調理
① 1-②に水700㏄程度、カットトマト缶詰め1/2缶投入
② 具材を全投入。コンソメ3個(味見しながら要調整)弱火で煮込む。
③ カレールー。3かけ(味見しながら要調整)さらに煮込む。
④ ゆで卵を作ったのでトッピング

3・所感
・具の野菜がごろごろしているのが美味しい。煮込むより固形感を感じさせるほうが個人的には美味しいと感じる。肉はもう少し大きく存在感のあるものが似合いそうだ。お店で食べたスープカレーはハンバーグ入り。今度は、それだ。小さめの肉団子も気楽そうだ。
・具を素揚げすることで味が染みるのだろうか。ただし揚げ物は面倒くさい。フライパンでさっと炒めることでどうだろう。次回の改善点。
・ダイコンやゴボウなど入れてみた。似合う。次回はレンコンを。オヤジの料理、なんでもござれ。
・辛いものが大好きな自分は、クミン以外にコリアンダー、パプリカ、グラムマサラ、市販カレー粉、色々めったやたらに振ってしまった。風味を出すには、それらのスパイスも炒めるとよいかもしれない。スパイスの扱いが実は肝なのだろうか。次回の改善点。ついでに赤唐辛子、いれよう。
・具の色どりとして緑色が欠かせない。その意味でピーマンを入れた。むろんさやえんどうでも、オクラでも、青唐でも合うかと思う。次回でトライ。
・なにせお店で食べたのは一回限り。もう少し食べていくと、いろいろやりたくなるかもしれない。まずは何事も「小さく始める」事から。

ネットのレシピを参考に、冷蔵庫の整理を兼ねた。何と、なかなか美味しい。

こちらはプロのお仕事。チーズハンバーグ入りスープカレー横浜市港北区綱島。「らっきょ&Star」さん。これを食べなければ、スープカレーまで行きつかなかっただろう。感謝。