日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

共同作業

今では顔見世興行としか思えない、一台誰のためにやっているのかも定かで無い、そんな宴がかつて存在した。そこでは友人はかくし芸をして歌を唄い、お年寄りには詩吟や日本舞踊をする人もいた。当の宴の主たちは洋装から和装に。いやその逆か。着せ替え人形だった。そして何故か宴席の燭台に二人で火をつけて回る。その時にヤンヤの拍手や冷やかしの声がテーブルで湧く。わざと火を消そうとする人も出てくる。

そんな宴の最初は俗に「二人による最初の(愛の)共同作業を」などと司会が言うセレモニーで幕を開ける。二人でナイフを持ってのケーキ入刀だった。キャンドル・サービスはその次だっただろう。

共同作業か。棚の上のものを頼まれて取る、年末の掃除を分担する、食料品を買いに行く。その程度か。それは行動を共にしているだけで共同作業ではない。特別なことは思い浮かばない。ケーキ入刀、あれが最初で最後の共同作業だったのか?

この人しかいない、運命の出会いだったと、あれほど大切に思えて結婚した。しかし今の普段の生活で相手を思いやることがあるのだろうか。夫婦の間に会話はいらない。目と目で通じ合う、いや空気感でわかりあう。そんな西洋人なら決して理解できないであろう夫婦の距離感。自分達は辛うじてそんな価値観を、賛同はしないが理解できる世代だろうか。賛同しないと書いたが、実は無意識に実践しているのだった。かける言葉は文章にせずに単語だけ。応える言葉は是か非かを伝えるだけの最低限の一言だけ。いつからこんなに寂しい関係になるのだろう。だからといって不仲なわけでもない。常に愛情表現を豊かに行う西洋人には理解できないと書いた自分も、よくわからない。

会社生活を終えてから、娘たちがそれぞれ家庭を持ち家を出てから、夫婦の共通の話題が減る。頼みの綱だった愛犬も天国へ行ってしまった。しかしこちらはこれ迄なかった自由な時間を手にしている。今更胸襟を開いてなにをどうするのか。無理があるように思う。もう少し緊密な関係を維持しておくべきだったと思うのは後の祭りだった。学生時代の友人はこうアドバイスしてくれた。「奥さんが好きなテレビや音楽を一緒に聞くのがいいわ」と。しかし彼女の言うとおりにしようと思ったが、自分にとってつまらないものはつまらないのだった。とんでもない頑固者だと知るのだった。

ねえ、クリスマスツリーを飾りたい。押し入れから出して。

その頼みを聞いた時、僕は舌打ちした。もう子供達も居ないだろう、僕らにサンタさんがプレゼントでもくれるのかい?一体だれのために出すのか、面倒くさいと。かなりぶっきらぼうに返事をしてしまった。しかしその後に気づいた。あ、これは良いチャンスだと。

分割式のツリーと木組みの人形などはドイツに住んでいた時に買ったものだった。ドイツのクリスマスマルクトは夢があった。北緯50度を超えた街の十二月は凍てつく。しかしクリスマスマルクトと称して商店街や大通り、旧市街辺りにずらりと出店が出る。どんな小さな街にもある。白い息を吐きながら手袋越しに手にするのは暖かいグリューワイン。それを飲みながら店を覗くのは楽しかった。そこで買った木造りのクリスマス用品やザクセン州ザイフェンの木のくるみ割り人形辺りが我が家にもある。自分は余り関知してなく家内が大切に保管していたものだった。それを押し入れから出した時、毎年楽しそうに飾っていた妻と娘たちを思い出した。自分はいつも傍観者だった。

どれ、手伝うよ。だから飾りは残しておいてねと話した。やや遅れて玄関に行くとまだ作業が進んでいた。木彫り細工をぶら下げた。あ、これは「共同作業」だな、と初めて思った。久しぶりのそれは、楽しかった。今度は小さなケーキを買って、二人で小さなナイフを握ってそれを半分に切るのも楽しいだろうな。そんな思いが湧いてきて何故か含み笑いをしてしまった。

一体何十年振りだったろう。共同作業は悪いものではなく、むしろ楽しいものだった。

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幸せの506グラム

コカワぁ、ヨコカワぁ。機関車連結の為当駅で七分停車します。

誰もが扉から外に出る。すると首から平べったい箱を下げたオトウサン目掛けて皆殺到するのだった。中には千円札を既に握りしめているオジサンも、大きなお尻でドアをブロックして決して私の前には行かせないという、強い決意を漲させるオバサマも居ただろう。

ガチャンという衝撃はこれからの峠越えに備えて電気機関車重連で後ろに連結されたものだった。ゴゴゴゴっと列車は動き始める。幾つものトンネルを抜ける。ぐんぐん上るとスポンと異次元に飛び出る。浅間山が噴煙を上げているそこは軽井沢だった。気の早い者はトンネルの中で食べ始めるが僕はここに来るまでいつも我慢した。そこから先は素敵な信州の旅路なのだ。ここへ来てようやく紐を解く。香の物が入ったプラスチック容器を取ると益子焼の可愛い御釜が登場する。おぎのやの「峠の釜めし」だった。一体いくつ食べただろう。とりわけ豪華なわけでもなく鶏肉と栗、ごぼう。素朴な山の味がした。それをゆっくり食べながら眺める信州の風景。風景が釜飯の味を引き立て、釜飯が風景をより魅力あるものにした。

信越本線経由で北陸本線へ。それは学生時代の自分の帰省路だった。あるとき気分を変えようといつもの横川駅での釜めしをやめた。軽井沢か、小諸辺りから乗り込んだのだろうか、車内販売で買った駅弁は上田駅の物だった。「高原のトンカツ弁当」と書かれていた。揚げ物は冷えるとおいしくないがこれは東京駅の「チキン弁当」と同様に冷えても美味しいのだった。準主役級のレタスはきっと南側の川上村辺りのものか北側の嬬恋村あたりのものなのか、とても瑞々しかったのを覚えている。今ネットで調べるとそれは見当たらない。仕方ない、40年も昔の話だから。

有名な駅弁は他にも沢山ある。しかし自分はごくわずかしか知らない。まこと、駅弁は旅を豊かにする。そしてそれは列車が動き出して初めて紐をほどくものだ。時々見かける。発車前の車内で食べ始める人を。気の毒に車窓を見れば味が変わるのに、と思う。余計なお世話だろう。しかし最近はコンビニ弁当が多い。あれは風情とは無縁で何処で食べても変わらない。そもそも今は汽車旅自体が楽しくなくなった。風情あるローカル線は消え何処へも新幹線が走るようになった。気密室よろしく密閉された列車では旅の余韻などはない。単なる高速移動手段だった。なのでコンビニ弁当でも十分すぎる。

所用があり地元駅に出かけた。横浜市民にはお馴染みの赤い看板は崎陽軒のシウマイ店だった。色々な弁当を出しているが、やはりシウマイ弁当は外せない。横浜駅東口のレストランよりもシウマイ弁当のほうが有名だろう。弁当は東京駅や品川駅など自分が勤務していた会社の最寄にもある為、工場のある静岡県三島市への出張の際はたいていこれを買っていた。郷土愛というよりやはり味だった。まず経木の箱が良い。それがご飯の湿気を保ち香りがご飯に移るのかご飯が美味しい。おかずが主役だった。シウマイは崎陽軒の味だと目隠ししてもわかるものだ。ふたを開けた時の見た目、味、個々のおかずの役割。王道だった。また、食べ終わった後経木の蓋に着いたご飯を剥がして食べる。禁断の味がするのだった。出張は旅行でもないのに、やはり走り出してから食べる。自分はこだま号の車中でたいてい品川区の西大井あたりを過ぎて数分後、ぐっと西側にカーブする辺りで紐をほどいていた。すると新横浜駅に着くころにはほぼ食べ終わるのだった。その美味しさはしばし出張と言う事を忘れさせてくれたのだった。

地元駅にある崎陽軒の店を通りすぎて十歩。回れ右をして、買った。看板に誘惑され今日の夕飯にしようと思ったのだった。店の人に聞くとそこは一日で二百食は出るという。会社としては二万食を超えるだそうだ。日本一売れている駅弁と聞いたことがある。

車窓が調味料だと、旅の食べ物だと、そう思っているくせに自宅で食べたシウマイ弁当はとても美味しかった。もう一人で一つは多すぎた。家内と半分に分けたのだった。食べる前に重量を図ると506グラムだった。何故家で食べても美味しいのかを考えた。味以上の秘訣がありそうだった。そして分かった。僕たちは今旅をしているのだと。旅路だから美味いのだと。毎日は単調さの積み重ねに見える。しかしそれをゆっくりと時間の流れる旅だ、と思うことで毎日は輝く。旅の弁当は美味いにきまっている。

あいかわらず経木の蓋の裏にこびりついたご飯を剥がす。箸でやるより指でやる方がよく取れる。ポイと口に頬りこむとそれはでんぷんと言うより、木の香りと幸福の味がするのだった。幸せの506グラムはたちどころに消えてしまった。

果たしてこの箱の紐を何本外したことか。一日二万個以上売れているというのも凄い話だ。シウマイ、マグロ煮物、玉子焼き、鳥から、かまぼこ。どうしても蛋白質に目が行くが筍の煮物も杏も美味しい。マイ駅弁ベストは何だろう。これと横川駅のおぎのや「峠の釜めし」。小淵沢駅の丸政「元気甲斐」。三島駅の桃中軒「幕ノ内」その辺りだろうか。

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レジェンドとアルチザン

御年90歳近いご主人に会うのは二度目だったが相変わらずのお話し好きで自分達の自転車を見ては楽しそうだった。いつものようにまずは店内に自転車を入れて、と言われた。古いブレーキ用のワイヤーを買おうと思っていたので、それでは、とお店に入れた。彼はいかにも楽しそうだった。

- おおランドナー。やはりトーエイは良いフレームだね、ラグレスか。仕上げが良い。サンプレではないね。でもまとまりがいいね。
- こちらはトマジーニか。さすがにイタリアパーツでまとめているね。綺麗に作ってある。これはテツレコか。鉄製のレコードだね。

この店に来るのにはフランス部品、そして国産でも古いパーツを使っていないと何故か緊張するのだった。ランドナーはエルスやサンジェと言ったフランスの工房が作った小旅行車がベースになっている。パリ郊外のラヴァロアにあるアレックス・サンジェには何度か行ったことがある。当時住んでいた自宅からは自転車で30分程度だった。トゥ・クロメも含む高嶺の花がずらりと並び怖くてとても中には入れなかった。店の奥にこだわりのありそうなアルチザンの姿を見るだけで満足だった。ポルト・ド・ヴェルサイユにある展示場での年一回の自転車展示会にも足を運んだ。サンジェのブースには美しいマルーンカラーのフレームに電動変速のデュラエースが組み込まれていた一台があり驚いたが、伝統を守り新しいものを作ると言うことか、と妙に納得した。

今のランドナーを作った時は「フランス色を残したうえで現代の国産パーツで組む」をコンセプトとした。近所の馴染みの店で相談しながらフレームオーダーシートにサイズや特注部分を記入した。パーツは好みを自分で集めた。自分も最初はデュラエースRD7400を着けていたのだ。がワイドギアレシオでは今一つの変速性能だったのでショートゲージでも少しだけ長いパンタグラフの現代パーツに変えていた。そんな事でご主人にジロジロ見られるのも少し恥ずかしかった。

彼は「お、新しいパーツだね。性能が良いからいいね」と言われた。この世界では余りに有名なヴィンテージパーツを売る店なのにご主人は固執せずに多様性を認められる。それが今もお元気な理由だろうか。

買い求めようと思っていたパーツはセンタープルブレーキを引っ張る十センチ程度のタイコワイヤーだった。ごそごそと宝の魔窟のような店内から箱を引っ張り出してきた。タイコワイヤーにもまた長さがいろいろあるのだった。このブレーキはもう廃盤だからケーブルもあるだけだよ、よかったね。二本買うのがいいね。と言われる。

品物が決まると後はお話だった。勧められて椅子に座った。様々なお話を頂いた。教師と生徒のようだと思った。お母さんが入れてくれたコーヒーは美味しかった。彼女は全く話が長いのよ、と言うがご主人が達者であることが嬉しそうだった。友人と共に薄暗い店内の椅子に座ってご主人の話を伺った。それは止みそうになくカップはとうに冷めてしまった。彼は自転車店を引き継いだ二代目と言われたが世田谷のど真ん中にあるこの魔窟のような店は今後どうなるのだろうか。彼が一番好きなのは「人と話す事」なのだと思う。いやそれは手段でありその奥には好奇心があるだろう。それがあればまだまだお元気のはずだ。

面白い話で、この店の向かい側も又老舗のスポーツサイクル店だった。確かな腕と温厚な顔立ちのオヤジさんも又この世界では有名な方だった。こちらは初めてだった。ご挨拶だけ、と硝子戸をあけた。ご主人の指先が油汚れで真っ黒だったのが嬉しかった。この両店は向かい合わせでランドナーなどのサイクリング車を扱っている。成り立つのか不思議だったが先の店でランドナーの注文が決まると組み上げるのはこの店だった。またこの店のご主人はある意味向かいの店のお弟子さんに近い存在だと知った。話し相手になっていただいたお礼を述べて世田谷を後にした。

二つの老舗にはレジェンドとアルチザンがいらした。多様性を受け入れコミュニケーションをする。長生きのコツを教えていただいた。それらに加えて自分が出来る事は唯一つ、健康に乗り続ける事だろう。

世田谷のとある一角。そこには二店の老舗がある。サイクリストにはお馴染みの店だ。そこで何かを得た。多様性を受け入れ好奇心を維持する事だろうか。

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何が起きてもおかしくない

仕事から帰宅すると妻が重たい顔をしていた。「あかねちゃんパパが無くなったんだって。あかねちゃんママから連絡があったのよ。まだ六十一歳だって。」

そんな事を言っていた。あかねちゃんとは我が長女と同い年の女の子だった。近所だったのでママ活の公園デビューで知り合った。妻も子供も互いに友達、今でこそ疎遠だが母親同士のネットワークは残っている、そんな関係だった。

ご近所さんに加え妻同士・子供同士が仲が良かったので幼稚園から小学校入学へと交流が続いた。小学校の運動会や町内会の運動会であかねちゃん家族と共に遊ぶことが多かった。ご主人は頭を七・三分けにした真面目そうな方で糊のついたYシャツが印象的だった。縁の小さなメガネが知的な印象だった。会社員ではなく公認会計士でご自宅を事務所にされていた。物腰も柔らかな方だった。彼が鬼籍に入ったのか、年齢は自分と一つしか変わらない、それはすこしばかり衝撃だった。

死因は家内も聞かなかった。しかし友達つながりの情報で肺がんと知った。調子が悪くなり病院に行った時はステージIVで他臓器移転もあり抗がん剤治療も出来ない状態だったと言われたらしい。公認会計士は帳簿の誤りを見つけて正さなくてはいけない。経理と税務の知識が求められる。責任があり気も抜けない。ストレスの多い自営業だったと思う。聞くところでは煙草が欠かせなかったといわれる。逝去された人にムチ打つつもりもないが、ああそれは仕方がないと思った。煙草は吸う本人にはストレスから逃れ気分転換になる。それは単にニコチン中毒であり、禁断症状になってきたところにニコチンを得て生き返るだけの話だ。病が見つかった時にはもう抗がん剤にたえる体力もなかったという事で、最後は自宅で看取られたという話だった。

まだ大学生のお子様がいらした。家内の友人である奥様は途方に暮れているようだった。まず会ってみたら、と勧めたが落ち着くまではそっとしておこう、と当時のママ友連合での話になったという。

自分が悪性リンパ腫から脳腫瘍になり間もなく三年が経とうとしている。罹患は五十七歳だった。五年間何もなければ寛解という。そんなところまで生きてこられたのは今思うと奇跡に近いな、と思う。寛解したとしても、ガンではない全く違う病にかかる可能性もある。そんな中今できる事は何だろう。夢をもって日々を過ごす事、ストレスから離れて過ごす事、毎日笑って過ごしオキシトシンとセレトニンを大量に分泌させる事、そんなところだろうか。その為に自分は退院してからいろいろ取り組んできた。病床は死に毎日接する生活だった。それを通じて自分は健康年齢を無事に過ごせれば、いやまずはあと数年を何事もなく笑って過ごせればそれでいい、抗っても仕方ない、何かあったら受け入れるだけだ、そんな人生観を得た。その為には夢を持った。それはまだ果たせないが少しづつそれに近づいていると思う。すべては良い方向に回るように、と考えた。ガン病棟で浮かんだ事だった。今は年毎、いや半年いや毎月・毎週・毎日ごとにリセットする日々を送っている。

今日は北風が吹く中、この夏に物故した父の墓参りをした。家内と話した。自分達の墓はどうしようかね、と。普段は「墓はいらない。野山に散骨してほしい」と話しているが実際父の墓を見ていると、そんなものだろうか?とどうしたらよいのかわからなくなる。

こうして今でも生きていることは全くありがたかった。いつ何が起きても不思議でもない。それは自分にも家内にも言える話だった。自分がここまで何とか生きてきたのは幸運以外の何でもない。もう一度自分達は今何をすべきかを考えようと思う。ガン病棟にて一度書いたエンディングノートの中身も今なら変わるかもしれない。それもありだろう。

干支が五回回った。その年ももう終わろうとしている。次の一回り迄、何が起きてもおかしくないと思う。この年齢ならではの準備も必要だと思う。残されたものが困らぬように。

ご家族は春までは、と望まれたらしい。しかし医師の判断から二カ月だったという。自分がいま生きていることがひどく幸運に思えるのだった。

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闇深き巡業

そこに居るはずだった。行ってみるとショーケースには居なかった。店員さんに聞くと「今朝お店を移りました」と言われたのだった。そんな話は以前もあった。そこは隣県のあるホームセンターだった。そこで偶然見かけた。元気もあり可愛かった。数か月後にその店に行った。まだそこに居るのなら「これは赤い糸だな」と何処かで背中が押されたかもしれなかった。しかし居なかった。店員さんは「他のお店に行きました。」と言うのだった。どのお店に行ったのですか?と聞くと「えーと・・・そう、神奈川県です」と答えた。自分の住む県ならばまた会えるだろうか?さらに質問を進めると困り顔だった。

それはペットショップでの光景だった。年齢十歳ほどの犬を飼っていた。あまりに可愛く自分たちは日々癒されていた。そこでもう一頭飼うのもいいなと話をしていた。飼うなら同じ犬種だった。買いやすい小型犬だが人気のある犬種ではないのかもしれない。ペットショップへ出かけると犬をカートの載せたままいつもショーケースの中を覗いていた。たまに同じ犬種が居ると釘付けになってしまった。

そんな「浮気」に腹を立てたのか、愛犬は十二歳で世を去ってしまった。この犬種としては短命だった。心の隙間風を埋めようという気持ちもある。飼うとも決めずにホームセンターのついでにペットショップを覗くのだった。元気のいいシーズの男の子がいます。そんな記事をWEBでみて出かけた。

「お店を移る」とは何だろうか。どうやらお店には期限付きでやってくるのか。そこである程度の潜在需要を待ち、何も「アタリ」が無かったら河岸を変えるという訳か。顔見世興行や相撲の巡業ではないのだ。あの小さな体にはあまりにかわいそうな話だった。

日本のペット事情はかなりいびつではないか。ドイツに住んでいた頃ペットショップに行ってみた。しかし生体を販売している事を見たことが無い。調べると自分でブリーダーや保護犬猫を探すと書かれている。飼おうという決心をもって行く場所だった。赤坂や六本木にペットショップがあるのは何故だろう?着飾った女性客は夜の街の女性だろう。スーツ姿のオジサンはきっと意中の彼女達へのプレゼント探しだろう。ガラスケースの向こうに犬がいる。品定めをして決める。それはアムステルダムの飾り窓に近いように思える。

偉そうに書きながらも脛に傷がある。十二年連れ添った愛犬はやはりホームセンターのペットショップで買ったのだから。しかし衝動買いではなかった。じっくり考えた。なによりも犬が飼えるようにと、住んでいた集合住宅を引き払い一戸建てに移り住んだのだから。日本のペットショップ事情が違っていたら彼とは出会えなかっただろうから、あながち否定も出来ないのだった。

お目当ての子がお店を移った。その後何度移るのだろう。コロナでの在宅が増えペットは一気に増えたと言うが犬猫は工業製品ではない。悪質な業者が産めよ増やせよとばかりに産ませたのかもしれない。何処かで軌道修正しなくては余剰動物が増えまいか。そしてショーケースで衝動買いされ、こんなはずではなかったと手放される犬も減ってほしい。巡業に出てしまった二匹の犬の「今」をあまり想像したくない。きっと優しい飼い主さんに出会っていると思いたい。そうでない選択肢の先を探る気もないのだった。

売り買いはとても安易にされている。需要と供給のバランスも崩れている。果て無き巡業はあまりに闇が深い。

彼はきっと不幸な巡業はしなかったのだろう。我が家で十二年、笑いと安らぎをくれたのだ。

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息を吹き返した君

ここ数年ほど浮気をしていた。ずっと蜜月だった。全く一目惚れだった。べったリになったのはまずは見た目が良かったからだ。眉目秀麗、いや容姿端麗というべきかもしれない。いずれにせよそんな言葉はこのことかと思った。何よりも大切なのは触り心地だった。肌にぬめりがありそれが指と手のひらに絡みつく様は蛸の粘液のような気がした。それに直ぐにやられた。そして肝心の喘ぎも良かった。くぐもった低い唸りから感極まる喘ぎまで。まさに魔性だった。更に自分好みに変身してもらったから尚離れられない。

いっときの火遊びのはずだったがいつしかメインの座に居座ってしまった。婚姻届を出すにはまず最初に離婚しなくてはいけない。重婚は罪だから。自分は悩んだ。別れがたかった。結局そのままうやむやにしてしまった。ほんの一時の遊び心だったのに。

・・いや、そんな修羅場の経験はない。あくまでも自分とベースギターとの話だ。行ったり来たりしたが自分は最終的にプレべと呼ばれるプレシジョンベースに落ち着いた。ピックアップ一つの武骨な楽器だ。ジャズべと略されるジャズベースは二つのピックアップと呼応した二個のボリュームコントローラーが面倒だったし優等生っぽく思えたのだ。ずっと普通の四弦ベースだったが、演奏する音楽も変わり四弦開放音よりも僅か半音ではあるが低い音が必要となった。一オクターブ上げるわけにもいかない。五弦ベースはそんな必要に応じて手に入れた。

試すつもりで弾いた五絃ベースは慣れると使い勝手が良かった。五弦目があることでネックの中ほどで多くの演奏が完結できるのだった。ミュートがうまくできれば便利だった。自分はギターの木目が好きだ。塗装はナチュラルかサンバーストに限る。木目が映えるからだ。またネック裏はベッタリと塗装されたものが指に絡みつく粘りがあり好ましい。サテンフィニッシュは滑りすぎるしオイルフィニッシュは指の押しごたえがない。さらには指板はローズウッドではなくメイプルにこだわってしまう。それが指の運びを助けるように思う。弘法大師ではないので筆を選んでしまう。下手くその言い訳だ。プレベジャズベよりもハイファイな音には適さないので五弦は珍しい。ようやく見つけたものは黒だった。その塗装を工房で剥がしてもらいナチュラルフィニッシュにしたもの、木目の見える五弦プレべが自分の愛機となった。本妻の四弦プレべは別にいるので浮気のつもりだったが、人間など脆いもので、こちらと親密になってしまった。

そんなことでずっと使っていた四弦のプレべはしばしお蔵入りをしていた。このプレべに行く付くまでも他のプレべもジャズべも何本も使ったがこれが一番しっくりとした。ヴィンテージ風につくられたサンバースト色の一本だった。それらを下取りして入手したこの一本、次回からの練習曲は古いブルースやソウル、それにルーツ風の音楽になる。五弦ベースはそんな音楽には見た目が合わなかった。まずは本妻の彼女?をケースから出してきた。少し弦の高さを下げよう、とブリッジをいじった。するとフレットからビビリ音が出た。ネックが少し順反りしていたのだった。弦を張りっぱなしで保管していたがあまり緩めていなかったせいだろう。ネックの反りはトラスロッドを回せば修正が効く。高校生の時に買ったベースは当時そうやって自分でネックの反りを直したが加減が分からなかったのだろう、反り方がいびつなネックになってしまった。以来怖くて、電装系パーツは平気で交換するのにトラスロッドだけは触ったことが無い。楽器屋に持っていき調整してもらった。店員氏はネックを外しほんのわずかトラスロッドを回していた。組み込み直してブリッジのねじを回し高さを変えながらフレットと弦の間にゲージを立てて弦高を図っていた。さすがにプロの仕事だった。

さあこれでどうですか?アンプに繋いだらあら不思議。ビビリもなく高さも求めていたものになっていた。信じられない程に弾きやすくなっていた。これで苦手なシャッフルビートが上手く弾けるようになるかもしれない。しかし、数年置いてきぼりにしていたらネックは反るしジャックは接触不良を起こすし、とひどい状態になっていた。あれほど恋焦がれて買った一本なのに。きっとそれは「やきもち」による嫌がらせだろう。

浮気相手は弦を緩めてケースに収めた。息を吹き返した君を前にして、楽器に限らず何事も手の収まる範囲内でやるのが良いな、と考えた。あまり手を広げすぎても、何もかたちにはならないと。

弦を緩めてネックプレートを外しトラスロッドを少しだけ回す。さすがプロの手だった。弦のビビリも無くなり弾きやすい高さになった。全く息を吹き返した。

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よろしく頼むよ

我が家の玄関に一年間いたうさぎは来月で引退だ。来年は辰年だ。

仕事でアメリカ人と付き合いがあった。中国系の人だった。ディナーのときだろうか、干支の話になった。自分はイヤー・オブ・ラビットの生まれだと言うとそれは通じた。彼はイヤー・オブ・ドラゴンだよ、と言うのだった。干支は中国から渡ってきたのだな、とその時知った。干支のカウントが同じなら彼は自分より十一歳年上のはずだった。十二年で一回り。ストレートに年齢を言わずとも干支を聞けば想像がつく。日本人に向いたものだと思う。

昨年末に地元の地区センターで妻は干支人形を作る会に参加した。材料はセットされており布を裁ち、縫えば完成するという。白く丸く優しいうさぎだった。一年間彼はおとなしく玄関に座っていてくれた。

しかしうさぎが跳ねるように多くのことがあった年だった。父の死。母の施設入り。虹の橋をわたった愛犬。悪いことを挙げればきりがない。良いことと言えば、なんだろう。日々なんとか過ごせた事くらいか。

来年は辰年になる。辰は龍のことで想像上の生き物だ。それ以上を知らないので広辞苑のお世話になる。想像上の生き物に加え、インド神話に出てくる蛇を神格化したもの、大海や地底に住み雲雨を自在に支配する力を持つとある。ネットによると権力や隆盛の象徴、ともある。そもそも辰は活力旺盛の意味があるという。なんともありがたい歳になるだろう。

再び妻は干支人形作りに参加した。講習時間内に完成しなかった、とひどく落ち込んでいたが丸いだけのウサギとは違い龍は形も複雑だった。参加者全員が未完成だったという。ツノなど大変だっただろうと思う。帰宅して顔を作り完成したらしい。なんともユーモラスな龍だった。彼が「風雲昇り龍」になるのだろうか。今月末でうさぎとバトンタッチ。来年一年、よろしく頼みむよ。

まだ来年にもなっていないのに先の事を考えた。再来年は妻の干支だ。どんなヘビが出来るのか楽しみでならない。そしてその後、十二まで残るは九体か。九年後には一揃いを作り終えてもらい、狭い玄関に並べたい。

うさぎにはお世話になった。跳ねるように多くの出来事あった年だった。来年は風雲登り龍といきたい。よろしく頼むよ。

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