日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

好奇心もほどほどに

子供の頃は沢山の好奇心がありますね。なにせ身の回りには知らない事ばかりだから。NHKで放映されていた「できるかな」。進行役のノッポさんは、そんな子供の好奇心をパントマイム的な可笑しさを交えて実現してくれていましたね。自分は子供の頃ノッポさんにとても憧れたものです。

何にでも好奇心を持つことは子供の特権。もともと人間本来が持っていた心のはずですが、社会人となり色々な失敗を経て、だんだんと無邪気な心は失われてしまいます。「なんでだろう、どうなるだろう」よりも、それをやることによる失敗を恐れて、「やらないでおこう」となる。そのうちに「なんでだろう」も感じなくなってくるのでしょう。しかし好奇心は前頭葉を刺激する事が分かっており、好奇心の有無が脳の健康寿命に大きな影響を与えるとは、脳科学的にも心理学的にも広く言われているのです。好奇心(知的好奇心)と健康寿命というキーワードでネットを検索すれば、学術的なサイトからわかりやすいサイトまで、沢山ヒットする事でしょう。

幸か不幸か、自分は昔から「好奇心」(残念ながら「知的好奇心」ではないのです)だけは強くて、しかもあまり考えずにすぐにトライする性格だったようです。中途半端ではありますが結果的に趣味が広がりました。また、それは今も止まらないのです。好奇心が脳に良い、それは自分の日常を正当化してくれるようなものです。そうであるならが健康寿命は長そうですが、すでに脳の病には罹患したし、そればかりはサイトの記事通りにはいかないようです。

好奇心はありがたいのですが、それが「暴走」すると困るものです。

職場での話です。自分の仕事は夕方から夜にかけて。地元の方々のための、公民館的な建物で事務方の仕事をしているのです。終業間際になると大きな建物の戸締りをします。その頃はほとんどの職員さんは帰宅されます。がらんとした建物です。

戸締りも一箇所づつ確認しながら歩きます。地下室に続く階段のドアの戸締りも確認します。扉を開けるとそこは密閉された階段室です。音も良く響くのです。

そこで自分の中に、とある「好奇心」がムクムクと湧いてきて、抑えることが出来なくなりました。信条どおりに「好奇心を持てばすぐに実行」です。

オーケストラホールの良しあしのパラメーターで「残響時間」という概念があります。音源の振動が終わってからその音圧が60デシベル減衰するまでの時間、とサイトにはあります。当然この場での自分の好奇心は、自らが放つアコースティックサウンドが、どのくらいの残響時間なのか、あるいは、むしろ増幅してくれて、音を膨らませてはくれまいか、です。そんな事がわずか数秒の間にアタマを駆け巡り、好奇心の赴くままに、実行したのでした。

その無人の階段室にて、思いっきりアコースティックな音を出したのです。世間では「放屁」という行為です。

ゴボウが好物な自分。昨日もゴボウの煮物をしっかり摂取していました。ゴボウの協力も得て、腸はまさに準備万端。このひと時のために地味なる蠕動運動を長く繰り返していたのでしょう。それも手伝い、信じられない程の響きを伴って、音は階段室を満たしました。大成功です。ヴィヴラートを伴った2発はまるで祝砲のように増幅されて、コンクリートの狭い空間に響き渡りました。好奇心は満たされました。実践は期待以上の効果を得たのです。

しかし同時に思い出したのです。そこから数メートルも離れていない事務所には、まだ複数の女性職員が働いていらしたのです。あまりに優秀な「残響音」は間違えなくそこに届いたことでしょう。

「あぁ、後先を省みずに、やってしまった!」

すぐに事務所に戻るわけにもいきません。すこし時間を取ってから「生真面目で深刻な」表情で戻りました。その表情はきっとロダンの「考える人」か、ゲーテの「若きヴェルテル」のような表情であったに違いないのです。ヴェルテルは悲恋に悩みましたが、自分は高らかな放屁を聞かれて悩むのです。レベルは違えど、深刻度は同じかもしれません。

職員さんたちも「大人の対応」をしてくれました。しかし、きっと勝利の音が響いた瞬間は、彼女たちは顔を見合わせたに違いありません。それを思うと、顔から火が出るわけです。

好奇心はおおいに結構。即実施もおおいに結構。しかし度が過ぎてはいけないでしょう。昔から言われてますね、「過ぎたるは及ばざるがごとし」。そして孔子の言葉を借りるまでもありません。「中庸は徳の至れるものなり」。そう、好奇心はほどほどにしたほうが良いのだろう。そして実践のボタンを押す前に、周りをぐるりと見よう。

この年齢で、そんな訓戒を得ました。まだまだ学ぶことばかりです。

密閉空間で音は増幅され、思いつきの実験は成功裡に終わりました。しかし、恥ずかしい続きがありました。



善意の輪

最近ニュースやネットなどで目にする記事。コロナが収束したら最も外国人が行きたいと思う国として日本が挙がっているという。(出典:日本政策投資銀行JTBによる共同意向調査結果、「第2回 新型コロナ影響度 特別調査」)。

その理由は、「食事が美味しい事」「清潔である事」「治安が良い事」と書かれていた。

食事については、確かに日本のレストランはミシュランガイドの記載店も多い。そもそも常に自己研鑽を怠ることなく「繊細にして丁寧」なモノづくりを続ける事は、日本人の職人であれば最も得意とするところだろう。料理は当たり前にして、それはまずは食器の選択に始まり、店員の所作までに至る。だから、大雑把な食事の国から来た方が目を見張ることは容易に想像がつくのだ。B急グルメもローカルな食べ物とはいえ日本人の自分の舌でもとても美味しいと思う。

清潔であることについては、残念ながら夜の繁華街の汚なさは欧州・北米の主要な街と大差あるまい。しかし日本人がおしなべて清潔好きなことはよく言われる。手洗い、うがいの励行は少なくとも自分の世代は子供の頃から金科玉条の如く叩き込まれている。ラジオ体操と同じく、日本人は幼少のころからそう教えこまれたことにはあまり疑問を感じることなく愚直に遂行するから、清潔さは身の回り隅々まで行き渡るのかもしれない。そんな人々が生活を営む街はまあ清潔だろうし、コロナ禍がそれに輪をかけて、除染、除菌。そんな言葉が当たり前になった。

治安については鵜呑みしても良いのだろうか。最近はオレオレ詐欺や複雑巧妙化したネット詐欺に加えて、想像もつかない自分勝手さや情痴怨恨による理不尽な無差別犯罪が起こる。が銃器が認められていないおかげで乱射事件も基本的には起こらない。未だ総じて安全な国と言えるかもしれない。日本人として概ねこれは誇れるのではないか。

治安か・・。昔話を思い出した。自分がまだ会社員、それも二十歳歳代の話なので三十年以上前の話になる。当時自分はある商品を米国のお客さまに相手先ブランドで販売するという仕事をしていた。一機種を納入できれば次機種採用の話もある。それで米国へは次世代商品の打ち合わせで頻繁に出張したし、彼らもまたしきりに日本にやってきた。

そんなある日、来日した米国人が興奮してこう話したのだった。

「昨夜成田に到着して換金したときに財布をカウンターに忘れてしまった。東京のホテルでそれに気づいた。しかし翌日の朝に、何故かホテルにその財布が届けられていた。びた一文、減っていなかった。こんな経験初めてだ。これまでに、こんなミステリアスな事はなかった。ミステリーを越えて、怖い。」

そう彼は語っていた。

怖いと言う彼は、もしかしたら日本がとてつもない監視国家で、一挙手一投足が何気にチェックされている、と思ったのかもしれない。

しかし日本人にしては当たり前の話なのだ。財布を拾ったほうはそれを警察に届け、警察は警察で財布の中の情報と入国記録を照合し、自分たちが自律的に持っている「繊細にして丁寧」な仕事をしただけに過ぎないのだろう。誇るべきは、誰も忘れものの財布を盗る事もなく、確実に警察に渡したということだろう。

七、八年前には自分も似た経験をした。三浦半島をサイクルツーリングして、旅を終えてとある私鉄の駅で自転車を分解、輪行袋に入れたのだ。その際に分解に用いた六角レンチのセットを改札前に置き忘れてしまった、そのことに下車駅で気づいたのだ。早速駅員さんに話をすると、社内電話で乗車駅に連絡が付き、六角レンチは直ぐに見つかった。そして待つこと1時間、六角レンチは封筒に入り、無事「社内便」に載せられて地元の駅まで戻ってきた。後続の列車に無賃で載せられて車掌から駅員へと手渡されたのだろう。

これも街の人々の正直さ、そして鉄道会社職員の「繊細にして丁寧」な仕事、その2つが輪になって、小さなレンチの帰還に結び付いたのだと思えるのだった。言ってみれば「善意の輪」だろう。それによって助けられた手のひらに乗るその小さなレンチはその後ちょっとした宝物になり、以来輪行バッグの中で重たく存在感を放っている。

しかし一年前に真逆の経験もあった。タクシーで料金を支払ってから、数分後に財布がない事に気づいた。すぐにタクシー会社には連絡が取れ、自分の降車後には誰もその車には乗っていない事、そして車内に落し物の財布はないという確認が取れたのだ。下車してから紛失に気づいた箇所までを何度も目を皿にして歩いても、それは見つからなかった。考えたくはないが、財布はレンチとは違う。やはり人々の正直さや誠意が通じないのかもしれない、とがっかりしたのだった。三十年前とは、七、八年前とは、変わってしまったのだろうか。

そしてつい数か月前、隣県の高原迄出かけた。そこで愛犬の散歩をしたのちに最寄の鉄道の駅に立ち寄った。そのまま車で帰宅して、夕刻に犬の散歩をしようとして気づいたのだった。「犬の散歩カバン」が無かったのだ。散歩カバンと言ってもそれは、100円ショップで買った小さなエコバッグの様なもので、中には、犬のリードと、水を入れたペットボトル、犬が水を飲むためのボウル、そしてトイレットペーパーしか入っていない。総額でもその価値1000円もしないカバンだった。「あぁ忘れものだ、まぁ仕方ない」、と思っていたら、家内が当時の足取りを思い出し、あの高原の駅のトイレに忘れたのではないか、と言い出した。そして駅に電話すると、果たして、あった。あとは「善意の輪」に乗っかるだけだった。

なるほど、善意の輪は今も必ず存在しているな。あの財布も拾われて盗られてしまった訳ではなく、誰の人の目にもつかないところに落ちてしまい、今でもそこに人知れずにあるのではないか、そう今は思うようにしている。価値観が多様化した今でも、そんな善意は日本人の中に残っていると思いたい。諦めかけた自分と違い、それを信じて高原の駅に電話で問い合わせた家内には、まだあの時代の日本人の心があったのだ。

コロナが収束して外国人が再び日本の地を踏むようになっても、僕は自信をもって「治安の良さ」をアピールすることだろう。治安が良いというよりは、誠実さと繊細さ、丁寧さを基盤とする「善意の輪」が機能している国ですよ。誰も無理をしていないのです。そう言いたい。それは清潔さと共に、日本人が小さいころから道徳として教え込まれている事だろう。外国人がいつまでもそう思ってくれるような国であるならば、彼らの日本旅行が楽しいものであることは担保される。素敵な話だと思うのだ。

この国はまだまだ捨てたものではない。外国人にもぜひ感じ取ってほしい。今度ばかりは宅急便で届いた「犬の散歩カバン」を手にして、散歩に出た自分も今度なにかに遭遇すれば、必ずや「善意の輪」に加わるだろう、そう思うのだった。

 

今度は宅急便で戻てきました。宅急便の費用のほうが高かったのかもしれませんが、善意の輪ですから、嬉しい話です。



 

特急ひたち 仙台行き

自分のあの3月11日は当時勤務していた静岡県の会社の建物の中だった。静岡県だ。東北からは5、600キロは離れているだろう。しかしそこで危機感を感じるほどの大きな地震で、ただ事ではないと生理的に思ったのだ。会社のメンバーへの害もなく、すぐに家族の安否確認もとれた。ほっと安心するも新幹線も止まってしまった。当日は帰宅不可能となり会社に泊まったのだった。

その晩会社で見たネットニュース映像は信じられないものだった。ニュースの傍観者に過ぎなかった自分にはそこからあとの話を今ここで書くほどの経験も見識もない。その後の原発の事故といい未曾有の災害に見舞われた方々に、通り一遍のお悔みを述べてもなんの意味もないだろう。

胸を痛めた事は多かったが、常磐線が寸断されたことはいち鉄道ファンとしても厳しい事だった。

子供の頃の「みちのく」への鉄路は東北本線常磐線に限られた。東北線周りは特急「ひばり」。そして寝台特急の「はつかり」。ブルートレインもあった。手持ちの1976年版交通公社発行の時刻表を見てみよう。東北線周りのL特急「ひばり」は朝7時の上野始発を始発として夕19時上野発を最終にしてほぼ正時に出発、4時間かけて仙台まで走っていたことがわかる。

一方の常磐線周りは「ひたち」。これが、平、原ノ町を経て仙台までで走っていたのだ。同じく当時の時刻表では、上野から仙台まで、長躯駆け抜ける「ひたち」は上野発16時、仙台着20:41の「ひたち5号」のみ。しかし上野発5:55、仙台着13:55という列車、これは電車ではなく電気機関車の牽引する直通の客車列車が走っていたことがわかるのだ。みちのくへは、東北線常磐線がつながっている。讃岐の国で生まれた自分には、上野駅は見知らぬ国への玄関。小、中学生、そして大学生の頃の僕はそれを時刻表で追っては楽しむ、机上の旅のマニアだった。

そんな常磐線周りの仙台行き特急は地震を境に無くなった。いや、常磐線自体が途中で分断されたのだ。それほどに強い地震だった。

日常という毎日の積み重ねの下に当時の記憶は遠くなる。当事者ではなかった自分にもフクシマという単語は深く残ったが、あれから10年以上も経ち、いつしか自分には日常が戻っていた。

数年経って連絡のついた東北に住む学生時代の友人たちもやはり辛い時を過ごしたようだった。しかしそこには深入りもできなかった。

先日昔の仲間との会合で久しぶりに都心に向かう通勤電車に乗った。品川駅を過ぎて眼の前を見て驚いた。

常磐線の始発の一部はいつしか品川駅になっており、特急ひたちもまた例外ではなかった。品川駅から、常陸の国への旅人を運ぶ特急が発車するのだった。

自分の乗っている通勤電車の横を、スマートに特急ひたちが走り抜けていく。しかし並走する特急ひたちのドア横の行き先掲示板を見て、僕は膝を叩いたのだった。

「特急ひたち 仙台行き」

そう、確かに掲示板の電光表示は示していた。わが目を思わず疑った。しかし瞬きしても、掲示板の文字は変わらなかったのだ。

分断されていた常磐線はいつしか再開通して、そこに仙台行きの特急が再び走るようになったのか!皆ただ雌伏の時を過ごしていたわけではない。復興への足音はときに声高に、ときに静かに、しかし確実に進んでいたと実感したのだ。

自分の乗る通勤電車を尻目に「仙台行き特急ひたち」は鮮やかに軽やかに、横を駆け抜けていった。

決めた。今度僕が、東北の友人に会いに行くことがあるのなら、迷わず新幹線ではなく常磐線まわりの「特急ひたち仙台行き」を選ぶことだろう。人々の持つ熱意と、熱い復興への思いが、ゆっくりと立て直されていく街並みが、沿線風景に広がるに違いない

東京から常陸の国、そしてみちのくを結ぶ鉄道幹線の復興。部外者の自分でも、それを素直に喜ぶことを許してほしい。自分はまずそれに乗り、しばらくご無沙汰している「みちのくの友」に会いに行こうと思う。それが自分として出来る、復興の喜びを実感し、分かち合う事だと思っている。

京浜東北線の横を特急「ひたち」は颯爽とすり抜けていく。出入口の行き先電光掲示板には「ひたち・仙台行き」、そう確かに書かれているのだった。それがただの鉄道ファンを、ひどく幸せにしてくれた。本当に、良かった。

 

坂の街の自転車屋さん

普段の交通の足。公共交通機関を除いた身近な移動手段と言えば自動車、バイク。もっと簡易なものは自転車だろう。

いずれも気づけば、派手に、あるいは地味に技術革新がされている。派手な革新は自動車だろうか。今は新車の主流は電気自動車・ハイブリット車ではないか。バイクは常に転倒リスクはあるが、前2輪の3輪タイプも出てきた。リーン・イン、・ウィズ、・アウト、といったバイク乗りにはお馴染みの運転感覚とは異なりそうだが、転倒の可能性は減りそうだ。また地味ながらもエンジンに混合気を送り込むためのキャブレターも徐々に消え、電子式燃料噴射器に変わりつつある。精巧なメカであるキャブレターは冬場にバイクに乗らないと翌シーズンは目詰まりしてしまいエンジン始動にひどく苦しむ事になる。これも電子制御なら心配あるまい。エコな方向へ、ユーザーが楽できる方向へ物事は回っている。

自転車も、一般自転車、いわゆる軽快車。好きな呼称ではないが「チャリンコ、ママチャリ」。この世界も様変わりだ。もともとエコな乗り物である自転車の進化のベクトルは、ユーザーが楽できること、安全性を高めること、そんな方向だろう。電動アシスト自転車は乗り手が楽をできるという事で一気に日本では普及した。また安全性の確保の為か、ディスクブレーキの自転車も増えてきた。自転車も今では、必ずしも簡易な乗り物ではなくなってきたように思うのだ。

初めて職場の電動アシスト車に乗った時驚いた。充電池やモータも載っているので、まず「重い」。しかしアシストボタンを押すと世界は一変だ。まさにジェットスターターで、ペダル一漕ぎでぎゅーんと出足が伸びる。上り坂では試していないが、多くの「お母さんたち」が前後に子供を載せて(それも凄い話だが)楽勝で坂を登っていくのを見れば、わざわざ体験する必要もないだろう。

自分の住む街は坂が多い。住宅地の広がる海抜40から60メートル程度の広い台地にいくつもの川が侵食し、その川の源頭部分は里山の雰囲気を残す、いわゆる「谷戸・谷地」地形が広がる。運よくそこが未開発であるならば、そこは格好のビオトープになっている。住宅地の奥のビオトープは嬉しいが、あたりに住むのは少し大変だ。谷戸・谷地の果てに待つのは一気に狭まる等高線だ。行く人はそれを登って稜線に至る。それを嫌えば愚直に早いうちから尾根を辿らなくてはいけない。つまり、居住地に至るには苦労するのだ。

こんな坂の多い街で乗られる自転車は大変だ。登りでは変速機の調子が悪いと困ってしまう。電動アシスト車にしても放電していたら使い物にならない。下りはもっとクリティカルかもしれない。急で短い坂、緩いが長い坂。どちらもブレーキへの負荷が半端ない。つまり、坂の街で自転車が活躍するには常に適切な整備がされている必要があるのだった。

結婚して坂の多いこの町に住み始めた頃、近所に自転車店があった。ちょうど世の中にマウンテンバイク(MTB)が流行り始めたころで、自分はMTBを積極的に売っていたその店で家内とお揃いの二台を買い、二人で車に載せて河原に出かけたり、繁華街まで街乗りをしたり、と楽しんだのだった。何年か経ち変速機の調子が悪くなったので自転車屋に修理に行って驚いた。なんとその店は閉店していたのだった。なんでも息子さんに店を譲り、その息子さんはもっと大きな街に移り、流行りの自転車だけを売る店を開いたと聞いた。

少し離れた場所にも別の自転車屋があった。こちらは前を通ったことはあるが、住んでいた家からは離れていてお店ものぞいたこともなかった。唯軒先に沢山並んだ修理を待つ軽快車から、この店は町の住民のためにあるのだとすぐに察せられた。

しかしやむなくそこに自転車を持ち込んだ。通常街の自転車は自店で販売した車以外は面倒を見ない、そんな一般論の話をよく聞いていたので、おそるおそるだった。しかし店主は人懐っかしそうな笑顔を浮かべた。「あぁ、あのお店、閉店してしまいましたね。どうぞ、ウチで直しますよ。お時間は頂きますけど」

それが長く続く「坂の街の自転車屋」さんとの出会いだった。

自分の自転車趣味は1970年代から80年代前半の自転車のカタチに集約される。あの頃の細身の鉄のホリゾンタルフレームに泥除けのついた、いわゆるランドナーが好みだった。ブレーキワイヤーはレバーから後ろ出し、変速はWレバー。ステムはクイル。サドルは革。このあたりは乗り手の好みが分かれ何がいいという話ではないが、その時代の自転車のカタチが好きなのだ。

そんな自転車のある部品、それは当時モノのツーリングペダルのキャップだったのだが、それを求めに行ったら、ジャンク箱の様な店の奥からすぐに持ってきたのだった。

「この店はただモノではないな」と思わずつぶやいた。

店主さんはやはり学生時代は自転車部だった。彼の時代の自転車とは競技の自転車ではなく、旅行の自転車だった。今も店内にある当時の彼の愛車はやはりランドナーだった。「自転車部よりも、旅行部でしたよ」と言われるのがよくわかった。

途中6年程海外転勤で地元を離れたが、帰国してからも転勤先のフランスで入手した中古の1980年代フレンチロードバイクもきちんと整備してくれ、防犯登録書も手配してくれたのだ。欧州で自己流で作っていたサイクリング車も、やはりしっかりしたフレームで作りたくなった。彼のお店には年季の入った吊るしのサイクリング車のクロモリフレームがあったが、「これは少し大きいですね。サイズ520から510あたりが良いでしょう。」。確かに、そのツバメのようにスマートな鉄のフレームはサイズ550と言う事で、それは自分には合わないことは直ぐにわかったのだ。それを即座に見抜いた店主の慧眼にも、恐れ入った。

店主さんにオーダーメイドのフレームで「旅する自転車」を組んでもらってからは、自転車旅はより愉しいものになったのだ。車での、輪行でのサイクリングの帰りにはやや遠回りでも必ずお店に立ち寄り、素晴らしかった一日の旅について店主さんに報告することが何よりも嬉しかった。彼はそれを我が事のように嬉しそうに聴き、また自分が旅の中で感じた疑問についての十分すぎるコメントをくれることも忘れなかった。

サイクリングの帰りばかりではなく、仕事帰りにも自分は事あればこのお店に立ち寄り、ご主人の作業の風景を見入り、時折質問をしたりすることがいつか大きな楽しみになっていた。田舎の小さな街で自転車店を営み、いつも指先が真っ黒だった自分の祖父の面影を何処かで追っているのだろうか、と思う。子供の頃、祖父の自転車修理を見ていることが、自分は何よりも好きだった。

先にも書いた通り、坂の街は自転車には厳しい。整備なしに乗り切ることはできないだろう。事実、彼の店にはひっきりなしに修理や整備のお客様が訪れる。

「ブレーキが甘いのよ」
「夜のライトが付かなくなりました」
「ペダルをこいでもパワーが入らないわ」
「タイヤがぺしゃんこになってしまいました」

制動系、電装系、駆動系、走行系、さまざまな個所の修理依頼が舞い込んでくる。店主さんは症状を見てだいたいの問題を把握し、修理の概算時間と価格を伝える。見立ての良い外科医だ。しかしいつかこんなことを言われていた。

「電動自転車になってからは修理の内容が大きく変わりましたよ。モーターユニットはちょっとしたブラックボックスで、修理よりも交換になってしまうんですよ。だから高くついてしまい、申し訳ないんです。」

しかし彼は最新のそんな技術にもしっかり対応をしている。彼は自分の様な趣味で乗っている自転車の修理よりも、坂の街を行き来する自転車の修理を何よりも最優先する。学生さん、子連れのお母さん、主婦。彼らの「足」は彼によって支えられているのだった。そしてお客様も彼に自転車を預け、ひどく安堵して店を後にしている。約束の時間にベストなコンディションで自分の愛車の修理や整備が出来上がっていることを、彼らも確信している。

そんなご主人。最近少しお疲れ気味で元気がない。体調を崩されたという。聞けば自分が病に伏せ入院していた頃、ほぼ同じ時期に彼も病で入院していたのだという。彼の退院を待ちわびたように「坂の街の故障車」は一気にお店に集まったのだった。しかし充分な休みが取れなかったのだろうか。再び入院するという事でしばらく店を閉じるという話だった。それからしばらく、シャッターの下りた店の前を自分も寂しく歩く日々だった。

先日店の前を歩いたら、お店は開いており、ご主人はややお疲れの様子だがご健在だった。

「おかえりなさい」
「治療はもう少し残るんだけどね、病院に居ても仕方ないし、皆さん困っているだろうから、出てきました。」

それが許される病状だったのなら言うことはないのだ。さっそく「坂の街の自転車」のオーナーたちが三々五々やってきて、ご主人に仕事復帰の祝いを述べる。生活に必要な自転車の整備と修理を最優先する店主さんの復帰を皆が首を長くして待っていたのだった。見る見るうちに彼の店の軒先には受注残が沢山出来たのだった。

仕事に対するこだわり。通勤通学・仕事にと、働く自転車を最優先する事。お客様に誠実に向き合う姿勢。確かな技術。技術論もさることながら、自転車乗りとしての心構えや、自転車店としての哲学をも遠巻きながら教えてくれたのだった。

自分もロードとランドナーを少し彼に見てもらいたかったがそれはやめておいた。これまで沢山愛車整備のコツは無償で教えてもらった。彼からいったいどのくらいの自転車のノウハウを教わったのか。これからは僕がそれを実践する番だ。それが僕が彼にできる恩返しだろう。どうしてもだめな時はお願いします。もちろん店主さんはニコニコ笑いながら、とっておきの「ワザ」を教えてくれることだろう。でも、ワザは只では貰いませんよ。自分もそれに見合うようになっていますから…。

「坂の街の自転車屋さん」には、今日も「働く自転車」が整備を、修理を待っているようだった。それはそうだ。このお店が無ければ、この街で自転車に乗ることは出来ないのだから。

パリ在住時に現地の「売ります買います掲示板」で手に入れた1980年代のフレンチロードバイク。こんな車でも帰国後にはしっかり整備していただき、日本の防犯登録までしていただきました。写真はパリ南東、セーヌ・エ・マルヌ県の街、プロヴァンへのサイクルツーリングでの一コマ。菜の花畑を縫って古い街まで、ゆっくりと走ったのです。

 

天上の音楽とは

都会を飛び出してハイキングをしてみよう。どんな山でも全くの奥山でない限り、山の斜面のかなり上まで集落が広がる事を目にするだろう。

静岡ならばそれは茶畑だし甲府盆地であれば果樹園だ。何も農作物に関連した集落ばかりではなく、山の古刹の門前集落。そんなところでも人間の営みがある。しかし人々の日常の買い物は大変そうだ。なにせ下界はやや遠い。が、そこはうまく出来たもので、軽トラックの移動スーパーが大活躍しているのだった。コメ、飲料、肉、魚、加工食品、嗜好品、日常生活用品・・・積載方法を考えそれらを詰め込んだ車はさながら移動するコンビニ。限られたスペースで何が売れるのか。仕入れ側も知恵の絞りがいがある。品ぞろえの多様さはコンビニ以上に厳選されているだろう。彼らは集落の一か所で車を停めるとスピーカーで音楽を鳴らす。「はい、皆さんお待ちかね。移動スーパーがやってきましたよ」。そんなメッセージだ。すると、集落の方々が三々五々車に集まってくる。

驚いたことにそれは海外にもあった。フランスだ。ブルゴーニュ地方のサイクリング。ブドウ畑を緩やかに登り詰めると小さな教会があり、それを中心とした可愛らしい集落がある。フランスの田舎ならありきたりの何処にでもある光景だ。そんなところに小型のバンがやってきたのだ。パタパタと車の外枠を外すとショーケース。そして音楽を鳴らし始める。なんだ、日本と同じだな。ちょっと失礼、覗かせていただきましょう。お、商品は焼きたてのバゲットとチーズ、ハムか。ワインも手ごろなものが、積まれているな。なぁるほど、さすがにフランスだな。

山の集落で流れる音楽は、営みの証だ。毎日ではないかもしれない。しかし今日は待ち望んだ食料がやってくる。集落の人々はいそいそと家を出るに違いない。 山の上を「天上」と言うのならば、天上に流れる音楽は、人々に生きる楽しみを与えてくれるのだろう。

* * *

先日とある山をハイキングした。都心から遠いが、いわゆる里山的な場所だ。高くもない丘陵には林道が伸びて、山上集落も多い。そんな中を行く林道のカーブを曲がると、音楽が流れてきた。同行していた友が「音楽が聞こえるね!移動販売車が来ているのかな?」と口にした。しかしそこは切り立った崖を行く林道で、集落が辺りにある気配はなかった。地形図にも集落マークは無かったのだ。

カーブをいくつか回るとますます音楽が大きくなり、響いていた音もまとまってきた。流れているのはモーツァルトのピアノ協奏曲20番の第2楽章であることはすぐにわかった。なるほど山で短調の20番を流すとは、なかなかセンスある移動スーパーだな、と感心して次のカーブを曲がった。音の主は目の前で、それは小さな白い軽ワンボックスカーだった。

それは移動スーパーではなかったが、車のカーゴスペースに山摘みの荷物はさながら移動スーパーに近かった。リアのハッチバックゲートを上げてそこにテーブルと椅子を置いて、お年を召した男性が一人遠くを見ながらコーヒーを飲んでいるのだった。家庭用のカートリッジ式ガスコンロの上にはパーコレータが湯気を上げていた。

モーツァルトはお好きなんですか?」会話の端緒は何でもよかったが、自分と同好の士かと思い、そう声をかけた。

「いや、なんでもいいんだよ。たまたま、これがかかっていたから」

しかし、ひと気のない林道で、目の下にはコアジサイが咲く斜面。ガスが出ていて対面の尾根が見えないのだが、それが却ってモーツァルトに似合っている、と感じた。20番の第2楽章ロマンツェは映画音楽になるほどの美しさがあり、その音が霧がちの山の風景に消えていく様は、なるほど、ここはやはり「天上界」ではないか、と思うのだった。このロケ-ションでこれを流すのか。必ずこれはあの男性のコレクションだろうと思い、誰の演奏なのか、フリードリッヒ・グルダだろうか、聞こうと思った。が、それよりもその男性に対する興味が勝ったのだ。

「こうやって、気の向くままに出かけているんだよ。荷物は多いけど、外に出せば車の中で寝泊まりできるからね」

確かに車の中はプラコンテナやトロ箱が山積みで、自家発電機と缶入りの燃料も常備されているのだった。言われる通りこれらを整理して就寝スペースを作るのも大変なのかもしれない。しかしこれならば地の尽きる場所まで走って行けるだろう。

彼はいかにもコーヒーを勧めたそうだったが、こちらにも時間の制約があった。白いワンボックスは相変わらずゆったりとロマンツェを奏でている。自分はこの協奏曲はそれまでのなごんでいた空気を切り裂くようなピアノの打鍵で始まる第三楽章がなによりも好きで、その一音を聴きたかった。が、悠長に流れるモーツァルトは自分には無関係に霧の中に音楽を溶け込ませていくのだった。

子供の頃に、夢があった。地元の街の運河沿いだった。そこにはいくつものリアカーが置いてあり、荷台には段ボールで出来た家のようなものが載っていた。それを見て思ったのだ。あの荷台に住んでみたい。好きなところに行けると。それを聞いた母親は自分をたしなめたが、自分にはその理由はわからなかった。しかしそれを言うことはそれからは自らを戒めたのだった。

モーツァルトを聴くあの男性は、もしかしたら自分と同じ想いを胸に、年齢を重ねたのだろう。ご高齢にも関わらず、やりたいことに向き合い嬉々としてそんな想いを実現しているとは、自分には眩しく思えた。

天上の音楽はそこに住む人に喜びを与え、一人旅の旅人を和ませている。カーブを曲がると音楽は聞こえなくなった。しかし頭の中には第三楽章の始まりを告げるピアノの一打が鳴り響く。

自分もいつの日か、あんな風にやりたいことをやってみたいものだ。夢を忘れてはいけない。そして自分も好きな音楽を「天上の音楽集」とすることだろう。バッハなのかモーツァルトなのか、自分は何をそれに充てるのだろうか。愉快な妄想は続き「音楽集」を選ぶのも又、楽しい夢となった。

おっと、このあたりで林道から尾根にのらなくてはいけない。「天上」で聞いた「天上界」の音楽はこのあたりで終わりだ。立ち止まり地形図を精読する友の姿に我に返った。

このピークから下山路だな。気張れば最終バスにも間に合いそうだな。今日も素敵な、山旅であった。

左:サイクリングで訪れたフランスの田舎。丘の上の小さな集落に移動販売車がやってきて優しい音楽を流し始めた。すると集落の人々が三々五々やってくるのだ。出来立てのバゲットにチーズ。それに何よりも大事な事、今宵の赤ワインを買うのですね・・。 
右:奥多摩の山上集落に、軽快な音楽と共に移動販売車がやってきた。雪の中、ありがとう。お陰様で、今夜は刺身が食べられそうだね・・。

動画サイトより;

モーツァルトのピアノ協奏曲20番K466 内田光子の弾き振りの映像がありました。溌溂として素敵な演奏です。山で出会ったあの男性が好きでやまない曲なのですね。
https://www.youtube.com/watch?v=yM8CFR01KwQ

紫ランのお引越し

いくら関心が豊かではないと言えども、何十年も野山を歩いていると好きな花のいくつかは出来る。繊細で美しい高山植物は少し別格。なにせ高い稜線迄自分も頑張らないと彼らに出会う事は叶わない。がそこまで頑張らぬとも、沢沿いや少し登った平地には、いくつものお気に入りの花が出来た。

登山道は愚直に尾根を辿るものもあれば沢沿いに登るものもある。前者でも沢を横切ったり、高巻いたりする。よって沢沿いに咲く花を見る機会は多い。そんな中で素敵な山の花となると自分はヤナギランを挙げたい、と思う。

南アルプスは夜叉神峠から鳳凰三山へのアプローチ、北アルプス秩父沢。緑一色の中に揺れる赤紫の花、ヤナギラン、その気高さは忘れられない。そしてツール・ド・モンブランのコンパル湿原にて。氷河から流れ出る清冽な水に溢れた湿原に咲くヤナギランにも歩みが止まった。「まぁそうガツガツ登らなくても良いでしょ!自分を見て少し休んでくださいな。」そんな癒しの気配に満ちている花だった。ヤナギランは日本固有種でもないのか。美しさに国境はないのかと、いつしかこの花は自分の憧れになった。

ある年病に伏せ、この先の自分には山歩きは遠いものと諦めた。しかし入院から通院治療に切り替えて初めて散歩した初夏の近所の公園で、見たのだった。緑豊かな公園に揺れる赤紫の小さな花。ああ、ヤナギランだろうか、こんな低地の公園に咲くのか・・。それは病に伏せた自分がすべてに対して抱いていた諦念を、そうではないだろう、とたしなめるような慈愛と癒しに満ちていた。

公演の管理事務所で伺うと、この花はヤナギランではなく紫ラン(シラン)という事だった。確かに亜高山帯の湿気のある場所に咲く花が海抜20m程度の平地に咲くわけもなかった。しかし、自分にはそれで十分だった。ヤナギランでもシランでも、いいではないか。心の中に咲いていた花が、今目の前にある。強い生命力で、赤紫の花を咲かせているのだった。

少し離れた高原に所用があり何度か足を運んでいる。夏の盛りにはマルバタケブキで黄色くなる原だ。秋には草木の勢いも衰える。多いとは言えない雪でも、冬は一面覆われて、クロスカントリースキーでもできそうな原になるのだった。春、4月早くなるとフキノトウ。少し後にはワラビ。そしてツツジも散りかける5月の終わりの今、原の一角に赤紫の花が群生しているのだった。

「あ、これシランだね!ほら、去年あの公園に咲いていた奴だよ」

家内と顔を見合わせるが、僕は同時に困惑していた。なぜならいずれそこは地面が掘り返されることを知っているからだった。そうなれば、自分に希望を与えてくれた可憐な赤紫の花は茎ごと嚙み砕かれて残土として何処かに捨てられるのだろう。

「なんとか、しなくてはね。」

どちらからともなく、二人して車からショベルを出して、群生地を掘り起こした。シランの「お引越し」だ。引っ越し先は沢が近い東側の土地を選んだ。そこは陽光降り注ぐ場所なのだ。そこにショベルで穴を掘り、そこに株毎移植する。シランのカブは球根状で、地下茎が長いわけでもない。思ったよりも簡単にお引越しが進んだ。しかし数十株あるのでなかなか汗をかく。土仕事には無縁な都会のシルバー夫婦なのだから、汗まみれで気息奄々だった。。

「農家さんって、大変だね」

汗をぬぐい、泥まみれになった軍手を外しながら、家内は言う。シランのお引越しは無事終了し、初夏の日は西に傾いた。

さて次回ここに来るのは何時の事か。一年後にお目にかかるのか。生命力は強い花、と言われている。確かに誰かが植えたわけでもなく、自生していたのだからさもありなんだろう。

「お引越し先」の場所はしっかりと覚えておいた。盛夏がやってきて、秋風が吹き、雪に覆われる。そしてまたフキとワラビが伸び、ツツジで赤く染まる。その次は、「貴方」達の出番だろう。元気で再会。もっと株が増えていたらいう事もない。

「また来年だね。それまでに色々あるかもしれない。だけど、必ず再会しよう。」

あらゆる人や物に向かい自分はそんな台詞を、病の後まるで呪文のように何度口にしたことだろう。そんなセリフでも何度でも喋れば実現することを僕は信じたし、それは今も変わらない。お節介な引っ越しだったかもしれないけれど、許してほしい。自分はそれが楽しみなのだから。

大切な一年一年を過ごすために僕は呪文を唱える。「また来年お会いしましょう。」

シランのお引越しも無事終了。再会はまた来年だね。

 

父の日プレゼントで日本一周旅行

日本は島国。国土も小さい。地理でもずっとそう習ってきた。確かにユーラシア大陸アメリカ大陸も巨大だ。飛行機に何時間乗っても横断もままならない。かたや日本。欧州便に乗ると太平洋に出て踵を返して佐渡ヶ島の上空へ。30分もかからない。東南アジアからの帰国便では四国沖太平洋上を北上するが、すぐ左手には日本海も見えるではないか。たしかに、コンパクト。しかしそれで日本は本当に小さいのだろうか。

現実に47ある都道府県で、半世紀以上生きている自分でも、和歌山と九州6県、それに沖縄は一度も行ったことがない。未だ未訪問の土地がある。そんな訳で小さいかもしれないが、まだまだ自分には大きな国だな、と感じるのだ。

南北に長い国土のおかげか文化の違いを感じることは多い。よくある関東の味付けか、関西の味付か、という話題は尽きることもないし、使われている言葉もしかり。津軽の言葉と沖縄の言葉が同じ国にあるのだ。

食べ物の話になるとやはり好物の事を考えてしまう。ラーメンだ。映画「男はつらいよ」の中で、久々の帰郷を歓迎してくれた家族に対して、ちょっとした感情のボタンの掛け違いでやさぐれて、再びあてもない旅へ向けて飛び出してしまう寅さん。彼がそんなとき上野駅の安食堂で背中を丸め最終夜行列車の出発時刻を気にしながら食べているのがラーメン。そのラーメンが自分の理想。勿論映画のラーメンは食べられないが、見ればわかる。醤油スープに黄色い麺。シナチクとネギ、細切りのナルトに一片の焼き豚。支那ソバというやつだ。

そんなラーメンも「ご当地モノ」が市民権を得るようになって久しい。北海道から九州まで、支那そば以外にも美味しいラーメンばかりだ。出汁が違い、かえしも違い、麺も具も。色々に咲き乱れている。多様な味を探訪するのも楽しい。

そんな全国のラーメンに想いを馳せていたら、なんと、宅急便が来た。差出人は娘。少し早いが父の日プレゼントとの申し書きも添えられていた。何かと開けると、「ラーメンご当地紀行」と書かれた箱で、中には12袋のラーメンが入っていた。北海道から九州まで、東西南北、ほぼカバー。ラーメン好きを知っているな、我が娘。お見事!

本人曰く、少し前に行われた会社の「親善ゴルフ大会の景品」だという。なるほどな、景品を送ってくるとは、なかなか、貴女もやるな。

しかし会社のゴルフコンペでこれだけの商品を貰うというと、結構な上位スコアなのか、レディース・ドラコンなのか。いや、アイツとは何度もラウンドしているぞ・・ラフを耕しファーの連発。知っているよ、自分の運動神経を引き継いでいるのだから、上位スコアもドラコンもあるまい。ブービーが妥当なところか。

まぁそれ以上は聞かないのだ。どんなスコアにせよ、娘が会社の一員として、出席は必ずしも必須でもないゴルフ大会に出て、上役などにも気を使いながらもプレイを楽しんでいるのなら、自分はなにも言うことはない。

さて、明日はどれを食べましょうか。札幌もあるし高山もあるぞ。尾道もいいな。おっと博多か。それぞれのラーメンによっては具も工夫せねばなるまい。頭の中が愉快な夢想で膨らんでくるよ。そう、楽しんで食べればいつしか日本は津々浦々へ。父の日プレゼントで日本一周旅行とは、わるくないぞ。ありがとう。

そうだ、今のうちから注文を付けておこうか。来年のコンペで、また景品を得て送ってください。今度は世界一周したいんだよ。頼みますよ。

北海道から九州まで、ずらりと並んだ日本の味。これで自分は日本一周旅行です。