日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ようこそメゾン・ド・フォレへ

高原の地には友人がいる。もう二十年来か、いやそれ以上のつきあいだ。とある山の会で知り合った。その頃彼は埼玉県住まいだったはずだがいつからだろう、この高原にご夫婦で移住されていた。信州や甲州の山の帰りに僕は時折立ち寄った。山のついでだったのか、友の宅に寄るついでに山があったのかは定かではない。また彼はサイクリング雑誌の編集子をされたこともあり、自転車に詳しい。彼が所有するランドナーは自分の参考になった。ランドナーはフランス発祥の自転車だが彼はそれをイタリアンパーツ主体で組み上げられていた。自分は日本のパーツだった。しかし彼は良い自転車だね、と褒めてくれた。それは嬉しい事だった。

何でも手作りしてしまう彼は実に器用な人だ。そんな彼の自宅の看板がいつも記憶にある。彼の家は国土地理院の地形図でちょうど海抜千メートルの等高線の上にある。そしてその家には手製の看板を掲げられている。「1000mの家」と日本語に訳されるイタリア語の看板だった。

彼は海抜千メートルの地で手作りの生活をされていた。それはいつか自分の夢となり、ガンという病が自分を襲った時に病床で考えた。僕もあのように暮らすのだ、と。

手で作った家の表札は結婚した時に作った。木の板に切り文字でローマ字の苗字を張り付けた。そこに無意識に犬のマークを張り付けたのはその時点でいずれ犬を飼おうを決めていたようなものかもしれない。子供たちはそれぞれ育ち、社会に巣立ち結婚した。犬も我が家に来てともに時を過ごし天国へ旅立った。そして二代目を迎えた。手作りの表札はそんな過ぎ行く時間を静かに眺めていた。

今回引っ越すことを決めた時に、僕はそこにニスを塗り直した。三十五年年振りにそれは少しだけ綺麗になった。それだけでは足りないと、僕は屋号について考えた。そう、あの友人の様に。

我が家はその友と同じ市内にある。土地探しにと病後の自分に対して友は手を尽くして手伝ってくれた。見つけた土地は市街地には近いが裏手に深い森があった。「森の家」、そう直ぐに思った。ネーミングのセンスも工作のセンスも友には及ばない。しかし彼がイタリアならば僕はどうしよう・・。

海外転勤で住んだドイツとフランスが頭に浮かんだ。針葉樹の多いドイツに比べフランスの林は広葉樹もあり表情が豊かで柔らかかった。またヴァルトヒュッテというドイツ語も固い。フランス語ならメゾン・ド・フォレになるか。印象派の様に言葉が広がる。そちらが良いな。実際僕はこの二国ではフランスのほうが日々の生活では肌に馴染んだではないか。

木の板を彫刻刀で掘って彩色するという友の様な器用な真似は出来なかった。再び切り文字のお世話になった。板っきれにそれを張り彩色した。フランス語の屋号なのだからその文字はトリコロールに彩色した。自由・平等・博愛を表す三色旗はかの地ではいつも町や村で風に揺れていたが、風景に良く似合った。

油性塗料で彩色した。なかなか良い出来と思ったがその上に塗ったニスが悪かったのか、三色は少し色が変わってしまった。三色旗をモチーフにしたとは誰もわからないかもしれない。

そんな間の抜けた出発となってしまった。鎮守の様に我が家に掛かっていた表札はそこにも引き継がれた。狭い空間に屋号と苗字の表札二枚。それはアンバランスで、単純な方が美しいと思う。しかしこの看板と屋号の看板はどうしても必要に思えた。

この地に引っ越そうと思った時、僕は友人達が気楽に訪れてくれるような家になればよいなと思った。そう、それは僕があの友人宅に気軽に訪れていたように。実際そんな風になるかは分からない。しかし想いだけは持っている。

トリコロールが色あせたころには生活も落ち着いているだろう。そして扉を開けた時にこう言うのだ。「ようこそ、森の家 へ」と。

家の屋号は「森の家」。青白赤のトリコロールに塗った。三十五年前に造った苗字の表札と並べた。表札は流石に年季が入っていたがニスを塗った。二枚も並べるとビジーだが、外せない。いつかしっくりくるだろう。