日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

名前を書きましょう

小学生になり最初に学ぶのはひらがなの読み書き、次に持ち物に名前を書きましょう、だったか。確かにランドセルの名札は別としても、ジャポニカ学習帳などのノートや教科書、ソプラノ笛などには下手くそな名前を書いていた事だろう。

何故名前を書くのか。それは所有権の主張だ。それがあれば自分以外は誰も手にしないだろうし無くしても戻ることもあるだろうから。

昭和四十年代、新興住宅地に住んでいた。父が買った土地は横浜駅からひどく離れた場所で、畑と切り開いた山があった。そこには幾棟もある真新しい県営住宅があった。横浜駅へ向かうバス乗り場は広場になっておりバスが転回するのでいつも埃が立っていた。そんな所に開かれた場所だった。その住宅地では蓋のついた青い円筒形のポリ容器がどの家にもあった。各家庭のごみはそこに入れていた。回収日にはその容器ごと回収箇所に持っていく、言い換えれば回収拠点には青いポリ容器がずらりと並ぶ、そんな光景だった。父親はそのポリ容器に大々的に名前を書くのだった。小学生の自分は軽い衝撃を得た。蓋と本体の全面に大きく苗字と住所、電話番号が油性ペンで黒々と書かれてる。回収が終わったゴミの容器は軽くなる。確かに蓋は外れ、本体も又どこかに転がり消える可能性もあるだろう。それにしても…。

そんな父の所業は今となっては懐かしいものだった。昭和一桁代生まれ。無くしては勿体ない、手に入れたものは手放せない、自分のものはそうと主張したい。そんな精神が沁みついていると知った。しかしそこまでやるか、それを持ち運ぶ母は恥ずかしくなかったのか、と少しだけ父を笑った。

登山を終えて汗ばんだ帽子をぬぐ。恥ずかしながらあまり洗わない。下山口で簡単に流水に浸して絞ればすぐに乾いていしまう。わざわざ洗濯機に入れても顎紐を結ぶプラ金具が破損したら嫌だった。登山に使う帽子の好きな形は決まっていた。帽子の下端円周につばがぐりと付いている。サファリハットと呼ぶようだが自分はつばの大きなものは好きではない。短いつばのハット、色はベージュと決まっていた。これはスリーシーズン用で、冬はアクリルのニット帽だった。

東北の山に出かけた。下山してレンタカーを返してから気が付いた。ベージュの帽子が無かった。登山口に案内所がありそこのトイレまでは被っていた。顔を洗った。失くしたとしたらそこだった。多くの山を共に歩いたのだ。そんな山の相棒を失くした、登った山の記憶も風景も失った、そんな気がした。翌日直ぐに登山口の案内所に電話した。トイレ脇に落としものとして帽子はあり、それはその日のうちに案内所の職員が最寄りの役場に持って行ったとのことだった。すぐに町役場に電話した。数日後に郵便でそれは我が家に帰ってきた。山の友は見つかり、彼と過ごした山の日々は消えずに済んだ。

戻ってきた帽子を裏返いしてツバに名前を書いた。電話番号も書いた。油性ペンで黒々と。もう二度と迷子にはさせまいという気持ちだった。更に、万一この帽子を失くしても、と同じものを探した。それを入手しやはりツバの裏にもさっそく書いた。名前と電話番号を。

学生の頃から父親とは嘲笑の対象になった。小太りで短足、瞬間湯沸かし器のように怒り気難しい父を僕は何処かで笑っていた。自分が家庭人となった頃に父はもう会社生活を終え老境だった。何故だろう、いつしか彼に感謝と尊敬を感じていた。自分の社会人生活を経て彼を見直したらその想いは自然に湧いてきた。しかし笑い話として、ゴミ箱に名前を書いていたね、と話した。彼は笑うだけだった。

晩年に父は有料老人施設の世話になった。母は父の持ち物と衣服、下着類に油性ペンで名前を付けていた。そんな母も又老人保健施設の世話になった。今度は自分と妻が母の持ち物に名前を付けた。自分はペンで書き、妻は糸で縫った。入居者の衣類は一緒に洗濯されるのだから名前書きは必要だった。幸いに母は施設から自宅に戻れたがその服にはいまだに当時の名前が付いている。

八ケ岳から下山して食卓の上に帽子を置いていた。それを取り上げた妻が笑い声をあげた。

- あら、名前を書いているのね。ご丁寧に携帯番号まで・・・
- 何を笑う、無くなったら困るではないか。もう一つ同じハットがあり、そこにもそう書いたのだよ。
- お義父さんの事、笑えないね

返す言葉は、なかった。いつの間にだろう、僕は父そのものだった。

二つのハット。小さなつばの裏には・・・。色も顎紐も違うが風で飛ばされぬようコードストッパーを付けた。薄れかけているのでもう一度油性ペンで裏に書こうと思う。