日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

赤提灯

学生時代の仲間に部屋に赤提灯を飾っている奴がいた。もしかしたらそれは何処かの店先からかっぱらってきたのかもしれなかった。夜になりそれを室内で点灯させるのだからまるでその四畳半は怪しげな飲み屋になる。実際そこに男どもが安い焼酎やそれを割るためのコーラ、それにスナック菓子を持ち込んでは他愛のない話をしていた。時としてそこは雀荘にもなった。

部屋の主は何故かあぐらもかかずに足を女性の様にくずしている。紫のジーンズをはいた彼はニコニコ笑いながら煙草の煙で輪を作っていた。煙草の煙と酸欠になりそうな部屋。話のネタは時に猥雑で、それがますますその部屋の魅力を作っていた。

その当時の僕のアパートの隣室には宮城からやってきた男が住んでいた。同学年だった。空手をやるとは運動の苦手な自分とはおよそ相いれない世界に住んでいた。しかし彼は純朴で真面目だった。卒業して彼は郷里の仙台に帰り銀行員になった。今も付き合いがある。社会人十年目あたりだったか。彼は転勤で宮城県北部の田舎町に居た。僕はその頃テントとシュラフを載せたオートバイで山を走ることが好きだった。秋田迄テント泊をしながらそこで南下し、帰路彼の家に寄った。当時彼は新婚だっただろうか。愛娘さんもまだいなかった。結婚式以来になる彼の奥様に挨拶と思ったが汚いバイクウェアを気にした。ただその時は奥様は用事があり不在だった。夕飯時に奴は僕を赤提灯に誘ってくれた。きしむ様な硝子戸をあけるとそこはお婆さんがやっている小さなおでん屋だった。長いバイクの旅に疲れていたのか、東北のひや酒はグイグイと体にしみ渡った。隣に奴がいるのだからその夜は長かった。どうやって奴のアパートに戻ったのか記憶もない。

今僕は引っ越した先の高原の駅前にいる。シャッターだらけの目抜き通りは数十メートルで果てる。派生したそこは裏通りで、暗い路地に時間に置いて行かれたかのように赤提灯がぶら下がっている。地元の飲み屋に部外者の自分。敷居は高く思えたが建付けの悪い硝子戸をあけた。老夫婦二人が明るい声で迎えてくれた。カウンター四席と上がりまちに三卓。まるであの宮城のおでん屋のように思えた。

僕はそこに新しい友人と二人で来た。彼とは数年前に山で知り合った。信州の山の頂上でスキーを外して滑り止めのシールを剥がして一休みしていると自分と同じように一人スキーで登ってこられた。山スキーをやる。しかも自分と同じくテレマークスキーということで僕は話しかけた。彼は山梨の人だった。共にサイクリストでもあった。いつか僕も山梨に住もうと思っていた。SNS情報を交換し合い今に至っていた。自分がとうとう引っ越したと知り彼は我が家を探し当て挨拶に来てくれた。そしてようやく今日だった。

挨拶から山の話へ、趣味の話から仕事の話、家庭の話へと話題は尽きなかった。僕は酒が回るとなんでも笑い話にしてしまう。すると相手もそうなってくる。そんな時にお店のお母さんが名物を進めてくる。タイミングが最高だった。この地の名物トリモツ、砂肝のニンニク炒め。普段は内臓肉を食べない自分も口にして、挙句、美味いと唸った。山梨は銘酒が多い。冷酒をいったい二人で何合飲んだのだろう。

カウンターで飲んでいた外国人が気になった。端緒から彼がフランス人であると知った。そこで彼にも話しかけた。ヴゥー・ゼット・フランセ?と。するとウィと返事が来て、アンシャンテ、ジュ・マ・ペール・・・となった。奥様が日本人でこの地に住んでいる。そこからは垣根がなくなった。

友と別れ帰宅したら僕はその店に上着を忘れたと気づいた。自転車で三分。硝子戸をひくとお母さんはきちんとハンガーにかけて保管してくれていた。フランスのムッシュからはもう一杯やろうと誘われた。慌ててきたので財布を置いてきたと言うと彼は自分のボトルから一杯作ってくれた。

何なのだろう、この世界。友と笑い話した内容はいくつかは笑いとばして頭から消えてしまった。次回のサイクリングの約束と、嬉しい気分が心に残っている。あのフランス人男性ともまた会えるとも会えぬとも分からない。

赤提灯とはそんな所。友のアパートも古びたあのおでん屋もそうだった。シリアスなことも話すかもしれぬが、溜めたものを吐き出し大笑いするのだ。楽しければ良い。そしてそこで知り合いもなんらかの輪が出来上がる。今の世にして貴重な場だ。

ああ、そうだ。奴、赤提灯の男に聞いてみるか。お前、まだあの部屋の赤提灯は持ってるのか?と。もし持っているのなら貰い受けよう。我が家に今度は吊るすことになるだろう。

 

ここで話したことなど忘れてしまう。しかし笑いとばすのだから心地よい。そんな場所は大切にしたい。家の軒先に赤提灯をぶら下げたくなる。