日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

一冊の出会い

えー、懐かしいな。彼は嬉しそうに手に取り奥付を見た。これ、初版だね。1992年。第一作の初版か。良く持ってましたね・・。

ハイキング、縦走、テント泊、テレマークスキーでの登山、サイクリング・・・。これらの趣味をひとくくりにするのは容易ではないが纏めて言えばアウトドア趣味と言えるだろう。それを充実させるために多くの趣味が派生する。ギアとしての自転車、絵画、写真、アマチュア無線など。それはあたかも大きく枝分かれし辺りを緑色に染めるようなブナの樹の如しだ。秋には紅葉し冬には落葉し新緑には燃える。ブナは季節ごとの表情が豊かだが絶えず変わっていく。同様に個々の派生した趣味の重みもまた時に変わるものだが、アウトドアという一本の軸は森の大木が如く変わらない。

僕をアウトドアの世界にいざなってくれたのは疑うことなく雑誌「BE-PAL」だった。1980年代は数百円の雑誌だった。オフロードバイクからこの世界に入ったこともあり「アウトライダー」というバイクツーリング雑誌へ。ヤマケイこと「山と渓谷」を読むようになったのはその少し後だった。アウトドアの世界はそんな雑誌から始まった。

具体的な指南書がより自分を細分化された世界に深入りさせてくれた。

・寺崎勉氏著 さすらいの野宿ライダー 
・佐古清隆氏著 ひとりぼっちの山歩き 
・橋谷晃氏著 ネイチャースキーに行こう
・北田啓郎氏著 スキーツアーのススメ 
・白鳥和也氏著 素晴らしき自転車の旅 

オートバイは速度感に判断能力が追い付かなくなりもう乗らなくなった。がそれ以外の分野は今でも自分を夢中にさせてくれる。しかし全ての始まりは繰り返しになるが「BE-PAL」だった。その月刊誌は毎回キャンプなどの特集があったが、何人かのライターによる連載もあった。僕は上の本にもう一冊を加えなければならない。斎藤政喜氏だろう。「213万歩の旅」だった。著者はシェルパ斎藤というペンネームで今も同誌に連載を寄稿されている。丁度BE-PALを読み始めたころにこの連載があった。213万歩とは東京から大阪までを東海道自然歩道で歩いた歩数。バックパックを背負い自然歩道1343キロメートルを走破するという徒歩旅行の記録だった。

毎号夢中になった。しかし買い忘れもありすべてを読むことは出来なかったのだろう。単行本になると知り本屋で予約した。テントとシュラフをザックにつめて歩く。日が暮れればテントを張る。そんな気ままな世界を教えてくれ、いつかそれは憧れになっていた。社会人なりたての頃だったので会社漬けだった。酸欠の金魚が水面に顔を出すかのように僕はそれをむさぼり読んだ。いつか僕もザックを背負う人になっていた。人力で時に自転車で、山を歩き長閑な道でペダルを踏んでいた。

さすがに毎号は読まなくなったが出張に行く際はいつも成田空港でそれを買った。斎藤氏は変わらずにさまざまな旅をしていた。僕は仕事で狭い機内。彼は海外のトレイル歩きで機内へ。えらい違いだ。そう憧憬があった。

還暦を迎え自分は高原の地へ引っ越した。以前から知っていたが彼はその地に住んでいる。同じ八ケ岳山麓の住人になる。森の中に仲間たちとログハウスを作り、彼の著作は何十冊あるのだろう。彼は最新の自著にはこう書いている。「文を書くことを生業としているから自分は作家の端くれとは言えるかもしれぬが、作家と名乗っているのは自分の手で家を作ったからだ」と。それで数十冊も本は出せない。彼流の謙遜だろう。

彼が建てた丸木の家では奥様がカフェをやられていて代々レトリーバー犬を飼っている。それは知っていた。一度行こうと思っていた。彼の著作は確か四冊持っている。バックパッキングの本と、犬の本だった。意を決して彼の著作を手にして行ってみた。自宅から車でニ十分、深い森の中にあった。

奥様らしい女性が木造りのカフェにいらした。カフェの中では地元の女性がピアノを弾いていた。ふらりとお茶を飲みに来たついでに見えた。その壁には彼の歴代のアウトドアグッズが並んでいた。ストーブ、ランタン、テント、シュラフ。一昔前の登山道具店の様だった。木陰の椅子を選びチャイとブラウニーを頼んだ。木漏れ日降り注ぐキャンプ用のイスとテーブルだった。奥様に書を持ってきたこと、サインを頂ければ、と伝えた。主人はいま執筆してますがあとで来ますよ、そう奥様は言われた。初めて読んでから四十年近くか。時はゆっくりと流れるものだな、そう思った。

就職試験の面接の様に僕は緊張した。いらした斎藤氏は背丈も自分と変わらぬがやはりアウトドアマンと作家のオーラがあった。しかし近寄りがたい訳でもない。差し出した本を手に取り彼は嬉しそうだった。彼の処女作、その初版なのだから。彼は他の二冊にも喜んでサインをしてくれた。気さくな方だった。僕はドキドキして何を話したのだろう、つい先日の事なのに覚えていない。四冊持っていたはずなのに一冊が出てこなかった。帰宅して探すと出てきた。引っ越し荷物は未だに整理されていないのだった。これは1998年の初版だった。

BE-PALで斎藤氏の連載に触れなければ今の自分も違うものだったかもしれない。彼はアウトドアの作家としてのご自身がある。自分は何物なのだろうか、そう思う。が、焦る必要もない。還暦を越えて新しい一歩の為にここに来たのだから。本当の自分とはこれから作り上げていくもの。たいそうなものでなくとも良いだろう。多くの本が様々な世界に自分を導いてくれた。それぞれに感謝がある。どれも素敵な出会いだった。

今度サインをもらい忘れた一冊をまた持っていこう。そして緊張して、刺激を受ければよいのだろう。彼は僕と年齢がほとんど変わらない。まだまだ旅をするだろうから僕も刺激を受け続けるのだ。

手持ちの斉藤氏の著作。各書の見開きにサインをしていただいた。森に棲む作家さんは長き憧れだった。緊張して何を話したか覚えていない。ビブラムソールをかたどったスタンプが彼らしい。右上の一冊にはまた次回サインをして頂こうと思う。

森の中のご自宅だった。友人達と作ったという丸太づくりの家だった。手を加えて奥様がカフェもやられていた。多くの旅人がそこに集うのだろう。