日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

世田谷区松原・北杜夫と宮脇俊三

一年だけ東京都民だった。それは二十三区ではなく世田谷区の西隣、狛江市だった。大学に通うためだった。小田急線を使い下北沢で井の頭線に乗り渋谷に出るか、代々木上原で千代田線に乗りかえて表参道に出るかだった。小田急線は世田谷区を東西に切るように走っている。祖師ヶ谷大蔵、経堂、豪徳寺、梅ケ丘などどれも住みやすそうな町が続いた。友人の住む下北沢は中でも若かった自分には刺激的だった。「いつか世田谷区の住人になりたいな」、そんな夢をその頃抱いた。

実際の世田谷区は意外に細い道や一方通行が多い。小田急線の北側から京王線の南側、世田谷線の東側、環七の西側に囲まれたエリアは特に顕著だろう。そんな路地を彷徨っていた。

何故そんな狭い路地を歩いているのか。そこは自分の好きな作家が住んでいた街だった。多感な年齢に接した文学は今でも自分の体内に生きている。今の自分があるのはそんな書のお陰だった。昭和の人気作家だった北杜夫。鉄道紀行という新ジャンルを作った宮脇俊三。二人とも軽妙なエッセイの名手である。北杜夫は感性豊かな純文学も書き芥川賞を得ている。宮脇俊三は当時の国鉄の全線2万キロと乗りつくし鉄道と旅の楽しさをひろめた。未だに鉄道が好きで、下手くそな雑文をブログに書いている自分の原点は彼ら二人だ。自分のブログのペンネームは北杜夫から一文字勝手に頂戴している。

宮脇氏の書には時々北杜夫が登場する。「陽気な変人」として書かれていた。確かに北杜夫躁鬱病でもあり自らの書で躁・鬱状態の事を書いている。躁の時は気が大きくなり株に手を出して大損をして鬱になると廃人寸前まで落ち込む、そんなエピソードは有名だ。が宮脇氏は何故変人とまで言えるのか?それは宮脇氏の本業が出版社の編集者であり、北杜夫宅の隣に住んでいたからだったのだろう。二人は編集者と作家という関係であり、隣人でもあった。肝胆相照らす仲だった。

東京青山で精神科病院の次男して生まれ育った斎藤宗吉は終戦とともに旧制松本高校(現・信州大学)に進み、アララギ派の巨人・偉大な父である斎藤茂吉の足跡に触れて自ら目覚める。センチメンタルな青春時代は松本から北アルプスを頻繁に歩いた。東北大学の医学部へ進みながら北杜夫と名乗り文筆活動を始める。作家の萌芽を描いたそのあたりは氏の「どくとるマンボウ青春記」に詳しい。北アルプスをモチーフにした初期の文学書や青春期のエッセイを通じ僕はどれほど松本と言う街と信州大学に憧れたのだろう。山歩きを知ったのも彼の書の影響だろう。

いつか、二人が住んだ街を歩いてみたい、という夢があった。そこは東京都世田谷区松原だった。個人情報保護の時代に住所など容易にわかるはずもない。見つけても番地表示が変わっているかもしれない。ある秋の日、世田谷に向かった。

小田急豪徳寺駅は通り過ぎるだけの駅だった。初めて足を踏み入れた駅の北側は緩やかな丘陵地だった。目指す場所には狭い路地が密集していた。何度も歩き回った。運よく、クリーニング屋さんの軽ワゴンが走ってきた。呼び止めて聴いた。

「斎藤さんのお宅も宮脇さんのお宅もそこを左に入って右に折れたらすぐにわかりますよ。二軒並んでますから。」

と教わった。そこは一度素通りしていた道だった。何故見落としたのか。作家の家とは豊かな生垣に格子戸があり玉砂利を踏んで行く・・・そんな先入観があったからだろう。とある路地で確かに「斎藤」と「宮脇」の表札を並んで確認した。この地で北杜夫は多くの軽妙洒脱なエッセイを書き、自叙伝ともいえる大作「楡家の人々」、ドクターとして参加した自らのカラコラム登山の経験を描いた「白きたおやかな峰」などを書いたのか。宮脇俊三は全国各地の鉄道を乗ってはここに戻り「時刻表二万キロ」を書いたのか。静かな住宅地だ。夜はペンの音がしたのかもしれない。そんな空想と共に僕はとても満足し狭い路地を抜けて駐車場に戻った。後悔は部屋の整理で10年近く前に両氏の著作の多くを処分してしまった事だった。両氏とも鬼籍に入られた。寂しいが作品は手元に、心の中に永遠に残る。

松任谷由実の歌詞に出てくるシーンを巡る。好きな作家の住んだ街を巡る。一体何の意味があるのだろう。彼らと同じ空気を吸う事で自らの感性の源を知り感謝する。それでけだ。やりたいことをやるだけ。そこに意味を求めるのも、野暮だろう。

手元に残してある北杜夫の作品。実家にも少し残っている。散逸した何冊かは再び集めようかとも思う。

宮脇俊三の著作も又多くを手放してしまった。これもまた少しづつ戻そうかと思う。

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