日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ガソリンスタンドでのお正月

もうすぐお正月がやってくる。「お正月くらいは家に帰って来なさい」。そんな言葉があった。大学生になり初めての一人住まいだった。夏休みに帰省したばかりなのに母はそう言うのだった。「お正月くらい」とは何だろう。正月はそんなに大切なのだろうか?確かに正月はクリスマスに続いてやってくる冬休み最大のイベントで、小学生には楽しいものだった。親戚に会いお年玉ももらえる。中高になると冬季講習会で塾通い。大学生となり帰省しろと言われてもその先は富山市だった。父の転勤先の広島の高校を卒業し自分はキャンパス近くの神奈川座間市に住んでいた。同時に父は富山に転勤したのだった。縁もない北陸の街に加え正直母に会いたくなかった。折角気楽に過ごしているのだから。両手を上げての歓迎が心には重かった。

秋らしく冷えた週末、世田谷をサイクリングした。懐かしい一角に自転車は走り出た。僕はそこを見たかったが、育った街路樹が展望の邪魔をした。歩道橋に駆け上がり見た。目線の先にあったのは中古自動車店だった。

母親からの帰省の誘いは執拗で自分は「帰省しない」と宣言した。大晦日前にはアパートの中身は空になり仲の良い隣人は故郷の仙台に帰った。建物そのものが寒くなったように思えた。冬休みに自分には予定があった。三が日の間だけアルバイトだった。それはガソリンスタンドの店員だった。そこは資産家の友人の実家が経営していた店で世田谷区は環状八号線と小田急線が交差するあたりにあった。従業員誰もが帰省するのだろう、穴埋めの三日間限定の仕事だった。神奈川県中部の座間市から世田谷区まで寒い中をバイクで通った。町田に出て鶴川街道から世田谷通りを走ったのだろう。走り慣れた道も遠かった。店で貸してくれたゴム長は足にガソリンがかかると何故か蒸れて足指がひどく痒くなった。ガゾリン満タンにもニュアンスがあると知った。ノズルが止まった時点で止めろと言う人もいればギリギリ縁まで入れてくれという人もいた。ガラス窓用の濡れ雑巾を絞ると手はかじかんだ。初日に寒風の中バイクで一時間。座間駅から千歳船橋駅までは小田急線で数十分なのに何故バイクだったのだろう?帰宅するとひと気もないアパートは暗く寒い。ひどく寂しかった。こたつを入れて潜り込んだ。これが望んでいた親からの自立なのだろうか?あと二日過ごすのだろうか。果たして自分の宣言は正しかったのか?いやそうしたくてやったのだから、予定通りに事は進んだのだ。

正月になると商店は色めき立つ。また上野あたりの市場風景をながすテレビ映像にも季節感がある。僕はそのせわしなさが嫌いではない。独りで過ごした正月は今思えば侘しいものだったがあの頃はそうする必要があったのだろう。いつまでも親元にいるわけでもない。それは自分も親も乗り越えなくてはいけない壁なのだろう。娘たちが結婚して三度目と二度目の正月がやってくる。僕は宣言をしている。「まずは旦那様のご実家を優先してな、うちなど無理に来なくてもいい」と。しかし妻には本音をばらす。今年は来ないのかな?と。

歩道橋から駆け上がったその先には本来は自分が三日間お世話になったガソリンスタンドがあった。スタンドでのお正月は寂しいだけだった。社会人になり家庭を持ってからもずっとそのスタンドはあった。がしかしいつか消え中古自動車店になっていた。今思うと何をしていたのだろう。わずか一日数千円だった。親への反発がとても大切だった。強がりだったのかもしれない。きっと母は寂しかったのかもしれない。何故息子は正月に帰らないのだろう?と。悪い事をしたなと思うが老人施設に入った母と話す機会は少なくなった。後悔と共に自分勝手に思う。「頼むから、娘たちよ、どうぞ強がらないで欲しい。僕たちはいつも待っているから。」

そんな事を歩道橋の上で考えた。環状八号線の歩道橋だった。大型車が通るたびにそれは揺れた。サイクリングの行程は半分も過ぎていなかった。西からの風に追われるように自転車に跨った。

環八にかかる歩道橋を上がった。街路樹の奥にはある年の正月三日間お世話になったガソリンスタンドがあった。自分が成長する過程の中で通り過ぎた場所だった。今はもうなかったが自分が本当に成長したかは未だに分からない。

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