日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

まぶしい草野球 

♪ 風の外野席 手のひらかざして 青い背番号 確かめてみる
♪ エラーの名手に 届けるランチは クローバーの上に転がしたまま・・

きっとこの歌は、この場所を描いたのだと思った。なによりも作詞・作曲者の家から近いのだから・・・。

自分の人生の中で東京都民だったことは一年だけだった。それは二十三区ではなく狛江市だった。大学三年になりキャンパスは厚木から渋谷に変わった。下宿組の多くは学校の近くに引っ越したのだった。自分は同時に新宿の会社に就職した姉と同居する必要があり大きめのアパートを探した。世田谷区の西で多摩川に接しているそこは日本で二番目に小さな市ということだった。遊びに来た友人は土手に上がりサックスの練習をしていた。二十三区ではないということで家賃も少し安かったのだろうか。毎日小田急線に乗り大学に通った。サックス吹きや他の友人は世田谷区の東側はシモキタ・下北沢を選んだ。友は気持ちの良い男だったので居心地が良く自分はほぼそこに入り浸りだった。姉とはいえともに過ごすのは面倒くさかった。実質世田谷区民のような生活をしていた。

友人と世田谷をサイクリングした。疲れ気味だったので軽いルートでと相談し世田谷になった。「思い出の缶詰」のような場所なのだから楽しいランになるだろう。友人には一つだけお願いしていた。自分の青春を彩った音楽。ユーミンこと荒井由実、いや、松任谷由実の住む場所を見てみたいと。

多摩川の西側から走り出した。二子玉川には遊園地があった。多摩川河岸段丘にあるここは子供の頃は何もなかった。遠い昔に今は無き父に手を引かれ母と姉とで遊具に乗ったが面影もない。バブルのころからは環状八号線沿いにお洒落なカフェレストランが多くできた。イェスタディ・プレストンウッズ・・。そこの折り畳み式のマッチ箱を持っていることはステイタスだった。そしてお洒落なショッピングセンターが人気となった。もう何十年も経つというのに多摩川を渡り高台に上がる道、ニコタマの街は昔通りに大混雑だった。自分達はそれを避け、多摩川沿いに道を選んだ。多摩川の土手は広い。草野球場とサッカーグランドが並んでいる。どちらからも楽しそうな声が聞えた。

今少年たちは、野球とサッカー、どちらをやるのでしょうかね? 
サッカーだろうね。

そんな話をしながら、上り坂で世田谷通りに入った。誰もが夢中になったであろうウルトラマンウルトラセブン。それを作った円谷プロは今はない。跡地まで友は迷うことなく誘導してくれた。友は何度か下見で走ったようで道に詳しかった。自分はその恩恵にあずかった。円谷プロ撮影所は小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅が近い。駅から続く商店街にはウルトラマン通りと名付けられ、商店街の終端にはゲートがありそこにはウルトラマンがM78星雲へ向けて飛んでいた。素敵なゲートだった。千歳船橋から豪徳寺へ。この寺が井伊直弼墓所である事。そして今では招き猫奉納で外国人観光客にバズッっているとは知らなかった。

都内に残るチンチン電車と言われる東急世田谷線に沿い、スポーツサイクルの名店にお邪魔しコーヒーをご馳走になりながら店主さんと世間話をした。

秋の風が冷たくなった。帰路だった。東名高速の近くに目的地があった。アンダルシアあたりを意識したのだろうか、建物を包むあたりは地中海の空気が漂っている。さすがに大きな家だった。彼女は自身の心の風景をここでいくつもの歌詞にしてメロディをつけたのだろうか。ファンと思しき一行がやってくる。ご本人夫妻は迷惑だろうかもしれない。そそくさと通り過ぎた。

再び多摩川に出た。土手は悠々としていた。河川敷からスカーンと音がした。大きな外野フライだった。グローブを手にしたオジサンが懸命に走っている。追いつくのだろうか。僕ははっきりとあの素敵な歌を思い出した。ただの河川敷だが僕はこの場所だと確信した。秋の日は弱かったが、そこはいつまでも「まぶしい草野球」。ペダルを止めてエラーの名手らしい彼を応援した。そうそう、クローバーの上のランチボックスは食べたのだろうか。

左上:多摩川の河川敷には草野球場があった。彼女の歌はやはり客席のある野球場かもしらぬが自分はここだと思う。それでいいではないか。右上:祖師ヶ谷大蔵ウルトラマン商店街には彼のオブジェが空を飛ぶ。右下:旧型世田谷線車輛(後、江ノ電へ転籍)。自分のランドナーも同じ色だった。左下:豪徳寺井伊直弼の墓。しかし多くの外国人は招き猫奉納を写真に撮っていた。