日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

変わりゆく街

駅前に降りたのは四年振りだった。コロナになる前、ライブ直前のつめでこの街の音楽スタジオに頻繁に通っていた。ライブまで数週間に迫った頃、中国から端を発したウィルスは未曽有のものとなり、世の中は停止した。バンドのアンサンブルは完成していたがライブハウスはキャンセルした。そして堰を切ったように自分には激動が待っていた。早期退職、新たな職場、ガン罹患。再度退職。自分の全ては白紙になり癌治療でつるつる禿げげ頭になった。

久しぶりに降りた駅前には工事のシートが張られそこに重機が数台動いていた。どんなビルが建っていたのかも思い出せないのだが場所柄お洒落なカフェも入っていたのだろうか。路地裏に入り込みスタジオへの近道を辿った。コロナ下に開店したのだろうか新しいカフェや美容院もあった。街を抜けて三年振りのスタジオに向かった。ギターを抱えて階段を下りた。

どこかのテレビでやっていたのか、泉麻人氏あたりのコラムに在ったのか、面白い説を思い出した。「お洒落な街にはかならず細い登り坂がある」というものだった。

渋谷は谷間の街だから坂だらけだ。道玄坂宮益坂、金王坂。しかしその説ではそんな道幅ではなく歩く人たちの肩が触れ合うような坂道・・ということだった。スペイン坂や東急ハンズ前の坂辺りがそれにあたるだろう。代官山にも狭い坂道がある。中目黒は目黒川がはやり谷間を流れるのだから細い坂道が多い。そんな坂を上ると外国の大使館がある。下北沢など駅から代沢に向けてずっと緩い下り坂が続き車一台通ることも難しいが、いつもおしゃれな若者で賑わっている。

目の前のこの街もお洒落であるが特に女性に人気があるようだった。しゃれたブティックや小さなアクセサリー店に事欠かさない。それが細い坂道に続いてた。結婚する前に当時の彼女とこの街をよく歩いた。下北沢や三軒茶屋辺りから歩き始め駒沢公園を経由してこの街に出ていた。数駅隣からは彼女の住む街に向かう支線が出ていた。それは多摩川に沿って南へ、京浜地帯に向けて走っている。自分はまっすぐに多摩川を渡り西へ向かう電車に乗る。さよならと手を振る駅はいつもデートコースの最後の場所だった。

踏切の近くに巨人の王選手が宣伝をしていたお菓子屋がある。その向かい辺りにチェーン店の街中華があった。なぜか僕たちは何時もそこに立ち寄っていた。安上がりなデートだった。ある日そこでいつも通りに餃子を食べていたら、英語が聞えた。That's too much. Stop ordering, Keiko. と男性が言っている。三十代の金髪男性だった。しかしケイコさんはひるまずに注文を続けていた。彼らの前には餃子に加え麻婆豆腐や焼きそばなどが所狭しと並んでいた。彼と目線があった。彼は両手を上げていかにも「おてあげだよ」とでも言っているように思えた。

僕と彼女は見合って笑ってしまった。上手くいくと良いね、あの二人。と言いながら店を出て緩い下り坂を歩いて駅に向かった。

久しぶりの自由が丘の街だった。駅前広場は生まれ変わる。あの中華チェーン店も無くなってしまった。ケイコさんと彼がどうなったのかもわからない。今度妻とこの街に来ようか、とも思う。しかし二人の思い出の店も無いのに何の用事があるだろう。ウナギの寝床の様な自由が丘デパートは健在だったがこれとていつまで残るかは分からない。自分達は歳をとっていく。街も同様で、それはビルを建て替えて生まれ変わっていく。

自分達に必要なのは回顧ではなく「明日を生きる」事だった。懐かしい事を否定する必要もないが、何時も前を向いていたい。いつか新しい場所で、またそれを振り返ることが出来たなら自分達はそれだけ時間を過ごしたことになる。そうありたいな、と思うのだった。

四年来ないうちに街は変わっていた。今度来る時はまた違うだろう。しかし僕は再びここに来るのだろうか。

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