日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅30 昭和八年渋谷駅 宮脇俊三

●昭和八年渋谷駅 宮脇俊三 PHP研究所1995年

そこは「エーデルワイス」というレストランだった。僕は叔母と二人だった。大田区の叔母の家に泊まりに行った翌日にその街へ行っのだろう。母と違い気さくで明るい叔母を僕はとても好きだった。直ぐそばの児童館で遊びお腹が空いていた。「コウちゃんは何食べる?」と聞かれた。日の丸の旗がご飯に立っている銀色のプレートを選んだ。僕と六歳違いの従兄弟がそこに居なかったのだから彼が産まれる前になろう。1968年、9年あたりだろうか。

レストランはデパートの一階だった。そこから目の上を黄色い電車がゴトゴトと走っているのが見えた。山手線のホームの上を直角にそれは横切っていた。電車の上を電車がクロスして走る。ときめいた。看板にあった文字を読んで叔母に聞いた。「いのず線というのかな?あの電車」と。結婚で四国から上京して日の浅い叔母もそれは読めなかった。駅前広場にあった犬の銅像だけは知っていた。ハチ公だった。彼を見たくて連れてきてもらったのかもしれない。

・・・デパートは東急東横店で、いのず線とは京王井の頭(いのかしら)線だった。黄色い電車は営団地下鉄銀座線だった。そこは国鉄渋谷駅だった。それが渋谷との出会いだった。幼い頃のたった一度きりの街だった。

大学は渋谷駅から青山通りを赤坂方面に上り表参道の手前の右手にあった。学校が終わると友と宮益坂を降りて渋谷駅にでた。何故かそのままハチ公広場を通り過ぎセンター街や道玄坂、公園通りに足を運んで何処かの店でたむろするのだった。酔うと誰からともなく母校のカレッジソングを歌った。渋谷はまさに当時は「我が街」だった。携帯電話など無い時代、友人との待ち合わせは東横線の改札横の伝言板前と決まっていた。青山学院生の間ではそれは「東横ボード」と言われていた。東横ボードに午後6時な、と言うだけで飲み会の集合場所は仲間内に伝わった。先に行くのならそこに伝言を書いた。

図書館で「昭和八年渋谷駅」と書かれた単行本があり手に取った。著者の宮脇俊三氏は国鉄全線を乗りつぶし紀行を書いた。鉄道ファンには有名な作家だった。彼の書は多くを読んだがこの本は知らなかった。鉄道紀行文ではなくこれは渋谷で少年時代を過ごした作者が当時の風景と渋谷の記憶を書いたものだった。

昭和初期の青山あたりの原っぱの風景。東の宮益坂と西の道玄坂に挟まれた谷が渋谷。その街に東急電鉄が開通し発展していくさまが書かれていた。ハチ公のことも書かれていた。国鉄渋谷駅の小荷物窓口のそばに横たわる老犬だったという。既に飼い主は亡くなった。が毎夕主人をお迎えにそこに来るのだから忠犬となり彼は有名な犬となった。昭和8年の風景とある。

大学を卒業した後は彼女と良く渋谷にでかけた。そこは「勝手知ったる我が街」だったから気楽だったのだろう。彼女が妻になってから生活は地に着き足は自然に遠のいた。今は所用で時折渋谷に出かける。ついでに直ぐそばの母校に寄る。当時の校舎のいくつかは新しくなっている。ハマトラやアイビールックの女子学生も似非サーファーの男子学生ももうそこには居ないのだった。

渋谷駅周辺は大きく変わった。プラネタリウムなどとうに無く高層のファッションビルだった。東横線は地下に潜り東急プラザも東急百貨店も消えた。あの児童館も無くなった。いつも高層ビルの建築が進む。雨後の筍の様だ。今この街を歩くと僕は迷子になってしまう。いつしか渋谷は疲れる街になっていた。街は生きていると思う。この本に描かれた渋谷も今はない。著者の宮脇氏も鬼籍に入って久しい。来るたびに街はどんどん変わっていく。

今も元気な叔母といつか渋谷に行ってみようか。お世話になりました、食事でもどうでしょうか、と。彼女は今の街を見てたまげるだろう。懐かしく愛すべき当時の渋谷は追憶の街となったが、ハチ公だけは世代を超えて今も皆に愛されている。彼だけは変わって欲しくない。

黒い旧型国電は当時は省線電車と呼ばれていたのだろう。立派だった東急百貨店東横店も今はない。駅前のスクランブル交差点など怖くて歩けない。ただハチ公はそこで静かに時の流れを見ている。

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