日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

無窮に向かう道

海のある街に出かけた。そこは三方を山に囲まれた湘南の古都だった。その地形がその街をして都にしたのだろう。午後から思い立って出かけた割には目当ての犬カフェで楽しむことが出来た。生シラスと書かれた看板があるのも、海鮮丼の写真があるのも、サーフボードを横にくくりつけた日焼けしたお兄さんがゴム草履履きで自転車に乗っているのも、いかにも湘南の街だった。

小町通りには人ごみがあった。小さなアクセサリー屋からさまざまな手軽なグルメ、小粋なファッション、伝統の彫り物・鎌倉彫など、狭い路地に多くの店が軒を並べるのだった。コロナのトンネルも出たのだろう、西洋人、中国人、東南アジアの人々など観光客も目についた。しかし同時に気づいた。通りに以前の活気が無いのだった。幼い娘たちと連れ立って八幡宮まで行ったのはもう二十年も昔だろう。道路は賑わって真っすぐ歩けなかった。前回は夫婦と犬で歩いた。今日は夫婦だけだった。昔の通りには楽しい思い出があったが今日は少し寂しかった。平日の夕方で早めに店を閉じたのか、シャッターも目に付いた。廃店舗・売り出し中、貸店舗の看板も目立った。コロナの傷痕、高齢者社会、そんな言葉が頭を巡った。幸せになれない風景だった。

すべては過去の物になり新しい風景が記憶されてどんどん上書きされていく。しかしそれもまた消えていく。日々のページを繰ることとは過去のページを上書きしていく事だった。それを毎日繰り返すことが「生きる」という事なのだろうか。

街を抜けるとすぐに漆黒の通りとなった。秋の日はとうに落ちていたのだった。古都だけある、山影迫る裏道は薄暗い電灯のほかは思いのほかに静かだった。鈴虫の声が頭に響いた。

僕達は何処に向かうのだろう。全く分からない。どんな老いの形になるのかもわからなかった。大木が雷に打たれて突然倒れるのか、徐々に朽ちて倒壊するのかもわからない。あれほど賑やかだった小町通りは何処に行ったのだろう。

今日歩いた古都・鎌倉。その地に住んだ作家・立原正秋の小説の台詞を思い出した。苦しいのなら無窮に向かって歩み続けろ、と。なぜか頭に残る台詞だった。無窮とは無限、シータの事だ。自分には一生理解できない概念だろう。

・・このほの暗い道が無限なのだろうか。自分の行き先が見えない。これから何が待っているのだろう。しかし全てが分かれば生きる事は辛いだろう。何も分からないという事が、せめてもの救済なのだろうか。無窮に向かう道は暗かった。明日になれば明るくなるのだろうか。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村