日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

正体は何なのか?

師も走るというほど慌ただしい季節。冬至もやってくる。一年で一番日が短いことも手伝ってかあっという間に一日が終わってしまう。ボーっとしていると気づけば日めくりは一枚破られる。

テレビをつければ「本年のニュース振り返り。今年物故された著名人」などという総括的な番組が増える。商店街はアーケードの隙間から冷たい風が吹き込み「大売り出し」の幕は風に揺れる。スーパーに入れば、クリスマスの飾りつけと思えば金色の包装紙に飾られた商品。お正月用品だ。

赤と緑、そして金色に飾られる商店では店内放送もなにか気ぜわしい。店を出て少しでも歩けばすっかり暗くなった通りにチカチカと電飾を施している家庭も多い。

クリスマスから年末へ向けて、日本中はすべてが気ぜわしくなってくる。普段は暢気な家内ですらこの時期には目が三角になり大掃除を促す。おいおい、何か特別なことがあるのか?そう言いたくなる。

日本の年末の風景は慌ただしい。別に12月末で地球が自転を止めるわけでもない。年月は連続した毎日の積み重ねに過ぎず、始点も終点もなく進んでいくだけだ。その中の一点にヤマ場をもってくるかのような盛り上がり方。皆が急くから社会もそうなるのか、社会が急くから皆がそうなるのか。

12月はなぜこうも慌ただしいのか、せわしさのその正体がずっとわからない。

ただわかっていることは、自分はその季節が何となく好きという事だ。街の慌ただしさに身を置くと、何故だろう。昔から期待感で浮き浮きするのだった。スーパーの店内は、皆さんそれほどまでに鳥肉が好きなのですか?とでも言わんばかりにチキンが並ぶ。世の鶏達にとってはまったく災難な日だろう。売れ残りケーキが安く売られだすとおおずめだ。お正月用品中心で廉価なかまぼこも何処かへ消えてしまい高級かまぼこばかりが冷蔵ケースに並ぶ。軽く5、6倍は値段が違う。それでも、店内を歩くのは愉しい。心が軽くなりステップでも踏みたくなってしまう。そしてテレビで流れてくる上野は「アメ横」の風景を見ると自分達も何か忘れモノをしていないか、という気すらしてくる。こうしていられない、と浮き浮き気分は焦りに変わる。…そして同時に寂しさも感じる。祭りの後に感じる寂しさ。ああ、一年終わるよね、という気持ちなのか。期待と寂寥感は同居しあえる感情なのだろうか。一つの現象の表裏をなす想いなのだろうか。

敢えて考えるとしたら、期待や嬉しさは年末のイベントか。この季節、会社員時代には賞与が出てわずかながらでも懐が温まった。加えて家族は一まとまりとなり、なぜかこれまた普段食べない料理を食べる。多少なりとも胸が踊るわけだ。すると寂しさは何だろう。子供の頃は歳を経る事は嬉しい事だった。しかし加齢に対して今はため息は出ても胸は踊らない。だんだんと老境に近づくことが見えてきた、自分の伸びしろが無くなってきたことを自覚するからだろうか。

あまり深い事を考えないほうが良いのかもしれない。一年で一番日が短くなる時期に、一番寒くなるだろう時期に、多少寂しさはあってもワクワクする気持ちを持ち続けられるのであればそれは素晴らしい事ではないだろうか。

期待と寂しさの同居する12月のせわしさとは。日々の連続にすぎない時の流れで、少しアクセントをつけて振り返ってみませんか?そして思ったことがあれば明日から生かしませんか? そんな粋な計らいなのかもしれない。誰が仕組んでくれたのかわからない。

来年になれば、再来年になれば、いつかの日か、なにかわかるのだろうか。

商店街には寒い風が流れ込む。スーパーの売り出しの声が風に漂い、押されるように厚着した人がせかせか行きかう。年末の慌ただしさは、何なのだろう。