日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

追憶の麺・六角屋

六角橋という地名を知っているのは横浜市東部の人間か、神奈川大学の関係者だろうか。自分は長い間隣の区の住人でもあり、また当地には遠縁の縁者も居たりして、随分と昔から知っている地名だった。また「だるまや」という鉄道模型屋も仲見世と呼ばれる狭い商店街の中にあり、そこを時々覗きに行ったのは大学生の頃だったか。

再び訪れるようになったのは「ラーメン」だった。今ならそこらじゅうに溢れる「家系ラーメン」。「〇〇家」と言うのれんならばほぼ味の想像はつく。その本流に近い店が六角橋に在った。「六角屋」だ。本系と言われる「吉村屋」は当時は新杉田の方面にあり家からは遠かった。

六角屋の店の前の道路は交通量も多いが、当時は余り駐車禁止も煩くなかった。世にはコインパーキングが今ほどあったわあけでもない。店にはそれなりの行列が常にあったが、路上駐車をして食べるラーメンだった。

六角屋は「符丁」が多かった。注文を聞いていたのは若い活発な女性で、10人くらいの注文を一気に聞いて、「符丁」を巧みに使って10の注文を厨房に伝えていた。

10人行きます。
・味こめ固め
・味こめかため油少なめ
・かため油多め
・お次は海苔多めで麺少な目

そんな具合で厨房に正確に注文が伝わるのだがもちろん配膳もその通り出来上がってくる。なによりも彼女の注文は、リズムに富み、韻を踏んだかのような、すばらしい唄だった。映画「男はつらいよ」では毎回のお楽しみ。寅さんが放浪の果てに柴又に帰って旅で出会った家族や女性が、如何に素晴らしいかったかを家族に伝える名調子、「寅のアリア」を彷彿とさせていた。

家系ラーメンは出現した当時はそれまでにない新しい味として自分も惹かれた。その後さまざまな店が出てきたが、この店に一番通った理由やはり彼女の「アリア」だった。

幼いうちから二人の娘供に「王道教育」と称してそこらじゅうのラーメン屋に連れまわしていた「どうしようもないお父さん」はこの店にもよく家族で出かけた。お椀を貰い親から分け与えていたラーメンも直に一人一杯となった。そんな家系ラーメン。若いうちは美味しかったが加齢とともに行かなくなった。原点回帰ではないが、澄んだ醤油味のラーメンに戻って行った。たまにはあのこってり感が懐かしい。しかし食べるのなら路上駐車の店ではなく、近所に駐車場完備の「〇〇家」が何軒もあった。

先輩の新居転居祝いがあり、そこへ行くために国道一号線を戸塚から大船方面に自転車で向かった。数日ぶりの雨も止み、久しぶりのペダルは軽かった。途中には2年前に結婚し新居を構えた娘夫婦の家もある。新婚で自分たちの生活をまずは造り上げるのが大切な若い夫婦の前には、呼ばれぬ限りはポンコツオヤジは顔を出さないことにしている。しかしルートの都合上彼らの家の前を避けて通ることも出来ない。

家の前を通ると、結婚して新しくなった姓の表札があった。車はなく、この連休中にきっと彼らは何処かに遠出しているのだろう。仲が良ければ何より。それも嬉しかった。幼い頃からラーメン屋に連れ歩いた娘も、今や独り立ちをして家庭を営んでいる。ああ、ここで奴は日々の生活を営んでいるのか、と思うと、嬉しさと寂しさの混じった不思議な感情が湧くのだった。…長居は無用だった。何かを断ち切るかのように自転車のペダルを踏んだ。

すると目の前にあったのだ。赤い看板が懐かしい。道路に漂ってくる匂いもまさにそれだった。間違えなく「六角屋」の暖簾と匂いだった。ああ、六角橋のお店は閉店して、この辺りに移転したという話も聞いたっけ・・。そんな記憶は定かではないが、店の前の行列は六角橋の風景と変わらなかった。

ふと店内にはあの「アリア」が高らかに唄われ、そこには娘夫婦が座り麺を食べているのだろうかという思いが湧いた。彼らの家からはさほど遠くもない。娘にしては慣れ親しんだ味だろうから…。

しかし言下に自分は否定をした。行列も店の中も覗いていない。しかし彼らは前を向いて、明るい将来目指して今楽しんで生きている。自分が思いえがく郷愁も若い彼らには無縁だった。父親の昔日への想いは彼らには迷惑でしかない。

そこにまた、少しばかりの寂しさを胸に残したまま、ペダルを踏んだ。追憶の麺を食べる日はあるかな。思い切って娘を誘ってみるか。いや、彼女の世界は尊重しよう。目の前を高架で鉄道が横切った。ああ、これを東に行けば先輩の住む街だな。

数日来寒かった日が続いたが昼が近くなり気温も上がったのか少し暖かくなった。ウィンドブレーカを脱いで、先輩との待ち合わせの駅へと向かった。

場所は違えど同じ暖簾、道路に漂う懐かしい匂い。かつて場所は違えどこの店に通った娘がそこにいるのではないか、というのは、父親の郷愁だろう。