日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

ラーメン史に思いを馳せる 春木屋・川崎店

世の中にラーメンブームが来たのは何時だろう。記憶によれば1985年から90年頃ではないか。自分の手持ちの文庫「ラーメン大好き・東海林さだお著(新潮文庫)」は所版が1985年。「ベスト・オブ・ラーメン(文春ヴィジュアル文庫)」は1989年度版だ。まだネットもなかった頃、当時の情報は口コミで、前後して出版されたこの手の本だった。

当時のブームの牽引車はずばり荻窪。それに三鷹西荻。阿佐ヶ谷、浜田山や永福町。山手線内もある。東池袋日本橋あたり。おっととても大切なエリアも忘れてはいけない。目黒だ。豚骨や博多系による環七のラーメン戦争も、新横浜のラーメン博物館も、もう少し後だったかもしれない。

なにせ社会人なりたての頃。まだ気楽で少ないながらも給料も入って来たので、会社帰りにはよくこれらの場所へ遠征した。当時は土曜日にも半日の出勤日があり、「半ドン」はそのままラーメン行脚のはしごを意味していた。二軒三軒当たり前。なによりも楽しかった。結婚前の奥さんとのデートも、ほぼこれ一択だった。しかたない奴だ、と今は思う。しかしお陰?で今でも行脚は共にしてくれている。

そんな荻窪の名店では自分のベストは三つ。青梅街道沿いの「丸福」「春木屋」。そして教会通りの「二葉」。「佐久信」も「漢珍亭」もそれに続いた。もうそのうちのいくつかは閉店してしまった。どの店かは書かないが、まるで「道場」のような店もあった。店内では一切沈黙。連れあって行っても相席の気遣いはない。そもそもカウンターしかないのだ。座って水が出て、ようやくカウンターから「ご注文は」とくる。それまでは誰も一言も発しない。注文は手際よく言わないといけない。絶えない行列に、早く食べなくてはというプレッシャーが加わる。精神鍛錬の為にラーメンを食べるのかと、錯覚する。「道場」たる所以だ。しかし味は抜群だ。味玉子はしっかり煮られて黄身も嬉しい程固い。その煮汁には少しの挽肉が混じっていて、それが玉杓子で玉子を救う時に一緒に器に僅かに投入される。これが絶妙に隠し味となるのだった。

すでに煮干しやブシ系の出汁を使っていた店もあり、ベスト3のうち二軒はその傾向が強かった。

そんな懐かしい店の一つが隣町のショッピングモールのフードコートに出店していた。つい最近の出店という。そんなシチュエーションから余り味には期待はしていなかったが、なにせ近いのだからと行ってみた。順番が来たらブザーが鳴るというワイヤレス端末もイオンのフードコートと変わらない。覗いた店内も若いスタッフ。多分平ザルではなく、深ザルなんだろうな、と思う。

しかし味は懐かしく、美味しかった。やや太めの麺も、和風の効いたスープもピタリとはまった。それはジグソーパネルの最後の一ピースのようだった。若いスタッフでもきちんと作れるように、サプライチェーンもかなり見直しているのだろうか。

しかしこの味は何かが足りない…。わかった、春木屋のラーメンはあの青梅街道沿いの狭い店の中で肩を寄せ合って食べるから美味いのだ。この開放的なフードコートでは、多分吸い込む空気の匂いも味が違うのだろう。ラーメンは、せわしくなくてはいけない。狭い中小鼻に汗を浮かべて食べる、いや、流し込む。ゆったりと食べたらラーメンに失礼。1980年代のラーメンマニアは、きっとこう鍛えられている。

まぁそんなラーメン史にまつわるオタクな考えとは別に体はラーメンを求め、汁まで飲み干した。いいな。今度は、本店詣でだな。

支店であろうとも懐かしい味。もっと狭い場所でせわしく食べて汗も書いたら、より美味し。しかし充分イケました。

受験参考書には「旺文社のチャート式参考書」と昔から相場は決まっていました。別にラーメン大学を目指したわけではないですが、これらの文庫本は、ラーメンの世界への当時の貴重な参考書でした。「チャート式ラーメン本」とでも言いますか。今も時折手に取ります。寂しい事に、もうやっていない店もあります。仕方ない話です。