日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

真摯なる職人さん

気がついた。自分は「職人さん」と呼ばれる人に弱いということに。職人と言ってもなにも伝統工芸の担い手ばかりではなく、見渡せば多く職人さんは身の回りにいる。

自転車屋さん。パンク修理は序の口で、スポーク調整・ホイールのブレ取り、ディレイラー調整、きりのない程のワザのデパート。
・タイヤ交換の整備士さん。タイヤを手際よく外して一気に締める。トルクレンチでカチカチ確実に仕上げる。
・駅ホームの立ち食いそばのおばさま。注文を受けて30秒で熱々の丼を出す。その丁寧さと素早さを両立した熟練さ
・新入社員研修の現場で見た熟練のスポット溶接工。流れてくる板金を手に取り、寸分たがわぬ場所にスポット溶接機を当てる。形を変えた板金は命を吹き込まれ、白く輝く。

自分の祖父は瀬戸内海に面した小さな町で自転車屋を営んでいた。子供の頃祖父の店に来る自転車を修理する真っ黒な祖父の指先を見るのが大好きだった。自分のやっている作業の意味を、何故ここで油を指すのかを、丁寧に教えてくれた。

その影響があるのだろうか。職人さんの熟練の手腕は見ていて全く飽きない。共通していることは「流れる」。作業に一切の無駄がなく、当たり前にようにこなされる。そして業種や分野を問わず職人さんたちは作業を念入りにする。全く手を抜かない。やるべき仕事が「10」あるのであれば、確実に間違えなく「10」こなす。それが簡単そうで実は容易でないことは、自分がそう手際よく長い期間に及んでやれるかと言われれば答えはおのずと出てしまう。しかし職人さんたちはしっかり作業をすることが定めであるかのように正直に仕事をする。和食料理店のまな板も包丁も白布で拭かれ常に美しい。あれを常に維持することは出来そうで出来ない。

誰のためにここまで念入りにやるのだろう。お客様に喜んで頂く為か。しかし最初はそんな気持ちで始まってもどこかの段階で目的は変わっているのではないだろうか。職人さんたちは何処かで、自分のやる行為の中に喜びを発見し、それを楽しみ、真摯にこなすことに何らかの自分の存在意義を見ているのではないか。だからこそ、その作業の手順は毎日確実にこなされて、ぶれる事もないのではないか。

今日のラーメン店の主も、またその意味で自分の目には職人すぎる職人だった。茹で鍋の湯を替える。麺を茹でるまで蓋をしてそれを外して湯のぐらつきを見計らう。しかし少し水を足す。自分から見ればそれにどのくらいの効果があるのか?と言いたい程度にガス栓を微調整し、寸胴鍋の様子を見る。麺の粉は三回払うのか。何故三回なのだろう。そこに行きつくのも何らかの試行錯誤があったのだろう。

今頃気づくのも遅い。自分はラーメンが好きで色々な店に行くが、目的はラーメンではないという事に。職人さんが作るラーメンが美味しいのは当たり前だった。自分の興味は職人さんの所作、そして職人さんがどれほど一杯の丼を作るのに心血を注いでいるかの強い表情。だから、バックヤードの厨房で作られてお盆に乗って出てきたものはその時点で興味の大半が消えてしまうのだった。一杯の美味しいラーメンは結果であり、自分は結果を生み出す過程に魅かれる。没入している人は美しい。自分も何かにおいてそうありたい。

「ごちそうさま。今年一年、美味しいラーメンありがとうございました」

そうお客さんは声をかけて店を出て行った。ご主人はそれ以上の歓びは無いという笑みを返したが、直ぐに厳しい顔になり寸胴鍋に向かった。こちらもご主人の渾身の一杯をありがたく頂戴する。

こちらも年の終わりに無言の「アツイもの」を見させていただいた。来年も良い年であるに違いない。

手抜きせずに真摯に仕事をしているご主人が作るラーメンならば、美味しいに決まっている。ラーメンは二の次で、やはりその没入している姿に魅かれる。