ここら辺りだったかな、テントを張ったのは。鹿の気配が濃厚であまり寝付けない夜だった。いや、それとは別に水場のあるカヤトの峰でテントを張った事もあったな。風の強い夜で朝はグンと冷え込んだ。しかし下界が朝焼けに染まるさま、それは見事だった。
様々な風景を思い出す。昔の記憶をたどりながら歩く山だった。稜線に上がるまではヒノキの林を沢に沿って登る。道型が小さな雷光型になり一気に高さを稼ぐと稜線だった。ブナの林が心地よい。
やれやれ一汗も二汗もかかされた。呼吸は落ち着き、行動食の大福餅を口にして水を摂った。長い主脈縦走路だった。地味な上り下りが続くのも尾根歩きのいつもの風景だ。あれほど多かった鹿の糞はしかし殆んど見ることはなかった。
気づいた。鹿よけ柵が多く設置されていたのだ。この山域は鹿が多く、ある時期から一気に増えた。バス停にからきつい上りで至る主脈南端のピークなどは奈良の若草山公園の如しだった。鹿による植生破壊が言われだしたのもその頃だった。地球環境保護やエコロジーという概念が一般化された時代だ。。
鹿は同時に、蛭を運んできた。これが自分をこの山域から遠ざけた最大の理由だった。前衛の山で蛭に喰われた。靴下の編みの目から侵入し巨大化している姿は不気味で取っても血は止まらない。無害でも気持ち悪い。
当時はなかった木道も随所にあり、足は進む。カラマツの広場で富士を大きく見たはずだったが今日は叶わなかった。ただカラマツがこんなに大きかったのか、それが定かではなかった。二十年ぶりなのだ。仕方もなかった。
木道の整備は行き届き、最後の急登にはたっぷりと絞られた。山域の最高峰の山頂が指呼の間となった。
今夜はここの山小屋に泊まる。流石に海抜1600メートルを超えるとこの季節のこの時間は冷える。小屋に入って一息ついた。
受付中に小屋番がストーブに着火した。寄り道をしていた友も到着。足の遅い自分が先行していたのだった。あてがわれた屋根裏の小広い板敷に布団を敷いて暖かい夕食を待った。
翌日も全く長い道だった。薙とも呼ぶべき大きなガレ場の脇をチェーン片手に登る。チェーンに頼らず我が足を信じるところだ。息もつくまもなくブナの林を抜け頭上の一本のダケカンバを目指す。次のピークの上りが待っているのだった。タオルで汗を拭い水を飲んでからとりかかろう。
* *
自宅のベランダから西を望む。立派な山は見飽きない。クジラの背と呼びたいところだがそれにしては起伏が大きすぎる。幾つかのピークが連なるが一番高い峰はラクダのコブの様でもあった。富士もその背中の左手にゆったりと見えるのだが、自分にとってはそれは脇役だった。
そんな丹沢は長きの憧れだった。小学校の校歌にも歌われていた。
♪ 丹沢、箱根、富士の空。
夕日に映えて夏の日も冬の日も ♪
丹沢は富士を除けば初めて覚えた山の名前だろう。自分が丹沢の見える家を選んだのも当然だった。ベランダから見る丹沢山塊はやがて何度も縦断し横断した。いつしか山を見る目は憧れというよりは再会の挨拶となった。
会社を辞め、病を経たことによる自分自身のライフスタイルと価値観の変化から、少し生活環境を変えてみようと考えている。たとえ丹沢がよく見えても、人の多い街で暮らすことに息苦しさを感じているのだった。
丹沢は少し遠くなるだろうか。ならばもう一度歩かないと悔いが残りそうだ。そうだ、今のうちにもう一度この足でしっかり歩いておこう。
久しぶりに歩いて、植生保護の名の下の整備が進む山は昔の記憶は薄かった。何度も歩きよく知ったはずのルートも、記憶は曖昧だった。あれほど居た鹿にも一頭も出会わなかった。最高峰蛭ケ岳の小屋はいつも素通りだったが、今回初めて泊まることが出来た。真西には気難しそうに檜洞丸が大きかった。ここからあのピークを目指して鞍部でテントを張ったこともようやく思い出した。あれもきついルートだった。真東に連なる丹沢三峰も易しい山ではなかった。丹沢での何度ものテントでの独りの夕べは過去の話で、全てが記憶の底に沈んでしまった。
小屋のデッキからチラチラと輝く外界をみて、気が遠くなりそうだった。外界から憧れを持って眺めた懐かしい峰。今度はその頂上に立ち下を俯瞰するのだった。
縦走を終えて少し引っかかっていた悔いは消え大きな満足が自分を包んだ。
丹沢は美しい。その姿に魅了された。そして実際に歩き山の素晴らしさや厳しさと、多くのことを教わった。少し遠くなるであろう丹沢に再び会えることはあるのだろうか。いや、何を言うのだろう、元気であればいつでも会えるではないか。山は逃げも隠れもせずにここに居続ける。遠い近いを決めるのは自分の心持ちだ。今生の別れでもないだろうという思いが、救済だった。
しばしの、御機嫌よう。
2022年10月29日30日
・平丸-稜線-姫次-蛭ケ岳・泊
・蛭ケ岳-丹沢山-塔ノ岳-鍋割山-二俣-大倉