日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

出逢い

多くの日を山で過ごしたはずだ。泊まりの山ならテントが多いだろう。避難小屋も多い。営業小屋を余り使ったことがなかったのは食事付きの値段が高い事もあるし夏場など一畳3人のスペース、などという言葉に恐れをなしたからだ。その点テントは気楽で自分の求めていた自由で気楽な世界があった。避難小屋も同様だった。

どこに泊まるにせよ独り歩きの山では、行程中はずっと自己との対話だ。こんな事あったな、全く色々やり過ごしてきた。はてこれからどう進もうか。いや、まず今があるのも家族のおかげだな、となる。早く家に無事に帰り妻の顔を見ようという思考を辿ることが多い。そんな時にこそ感性は尖り妙にセンチメンタルにもなる。走馬灯のようにこれ迄の風景が頭に浮かぶのもその時だ。その多感なひと時が好きで自分は山を歩いているのかもしれない。

山で歩くペースが近い人や山頂で出会った人、そしてテント場や避難小屋であった人などは何時までも印象に残る。

南アルプス広河原から北岳、翌日の間ノ岳まで自分と歩行ペースの近い方がいた。やがて両者の線は交わりさもない会話い交わすようになる。挨拶、どこから来たか、どこへ向かうか、と。もう今では彼と何を話したのかも覚えていない。が、間ノ岳にて別れた。彼は南へ農鳥山へ、自分は西へ塩見岳へ向かうのだった。軽く握手をした。二日間の仲間だった。彼の青い帽子と何時までも手を振りあっていたのが心に残っている。

利根川源流エリアは人の少ない山域だ。その中の盟主は平ヶ岳だろう。長く苦しい登りのはて登りつくと高層湿原だ。山頂も近いがまずはテントだ。湿原を下っていくと左手に小さな沢がある。環境保護の木道の広い箇所に何張かのテントがあった。自分もそこに張った。眼の前には冷たい沢があり持参した缶ビールを冷やした。隣のテントの人とは自炊が同じタイミングだった。その山は夏至の頃だったろうか。いつまでも明るい天空に、金星が輝き少しずつオレンジ色から朱色に代わりそこに藍色が滲むのを二人でボーっと見ていたのだった。貴重なウィスキーを彼は自分のコップに分けてくれた。沢水で割ると冷たく澄んだ味だった。空は見飽きないですね、と彼は言うのだった。こんな山にテントで来るなんてお互いに好きものですね、と返したがそれは彼と自分に対する賛辞でもあった。その隣のテントから夫婦が出てきた。今日は99山目だね、明日でおしまいだね、長かった。と言っている。明日の尾瀬・燧ケ岳で日本百名山の完登だ、と言う事だった。

今回は国境の避難小屋だった。稜線直下の小屋はブナの樹とダケカンバが混じった風景の中だった。冷たい水が沢山出ていた。初夏の好天気、梅雨の晴れ間だったので小屋は満員だった。最後に入ってきた60歳代後半と思える女性二人組は小屋のスペースが無くて途方に暮れていたようだった。小屋の中のベンチが空いていたので自分がそちらに移り彼女たちに場所を譲った。食事は彼女達と一緒だった。名古屋から新幹線を東京で乗り継いで来たという。余程山が好きでエネルギーが無いと出来ない行程だった。しかし無理はせず、明日は山頂ピストンで下山するという。翌朝、稜線で彼女たちに会った。目標の山を踏めたと喜んでいた。挨拶をし各々の道へ別れた。そこはハクサンイチゲアズマシャクナゲの咲く稜線だった。その花が彼女達には似合うなと思うのだった。

お互いの長い人生の中で、ほんの一瞬にすれ違っただけだ。二度と会う事もないだろうからこそ、深く思い出に刻まれる。息が上がって自分も山頂についた。国境の稜線は雪雲に鍛えられているのか険しいものだった。30年近く前に歩いた尾根を遠い気持で眺めた。

風に揺れるハクサンイチゲの白く可憐な花に次に会えるのは何時だろう。会えないかもしれない。しかしそれも良い事だと思う。出来る範囲で山に来て出逢えればよい。そう思うと目の前の稜線はぱあっと優しく広く広がった。

稜線のすぐ下の小屋からは明日辿る国境尾根がすっきりと見渡せた。