日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

追憶の百名山を描く(12)・塩見岳

●始めに: 

日本百名山深田久弥氏が選んだ百の名峰。山岳文学としても素晴らしい書だが、著者の意とは反して、このハントがブームになって久しいようだ。自分は特に完登は目指していない。技術的にも気力的にも出来ない山があると知っている。ただ良い指標になるので自分で登れる範囲で登っている。可能であればテレマークスキーも使う。この深田百名山、無理なく登れる範囲をどこかで終えたら、あとは自分の好きな山を加えて自分の中での百名山にしたい、その程度に思っている。

自分が登った懐かしい百名山を絵に描いて振り返ってみたい。いずれの山も、素晴らしい登頂の記憶が残っている。時間をかけて筆を動かす事で、その山行での苦しみや歓び、感動を、まるで絵を書くようにゆっくりと思い出すのではないか、そんな気がする。そうして時間を越えて追憶の山との再会を果たすという訳だ。

● 塩見岳(3052m・長野県伊那市静岡市葵区

東京神田神保町。登山用具店が軒を並べる。数は減ったが未だに何軒もの老舗がある。そんなはしごも楽しいものだ。山用具は安全・使い易さ・軽量化・高機能をベクトルの向きとして進化している。しばらく行かないと置いてけぼりで、目新しいものに目が釘付けになる。棚の無料パンフレットを手に取った。「信州・山のグレーディング(発行:長野県山岳遭難防止対策協会)」という折り畳み紙。広げて思う。まこと信州・長野は山の県。

パンフレットのグレーディングとは技術的難易度AからEまで5段階を横軸に、体力度を1から10段階を縦軸にマッピングしたものだった。E10が最難関、A1が一番易しい、最難関のE10にランクしたのは無くE9に北穂から槍ケ岳への大キレット、E7に前穂から北穂への穂高縦走が挙げられていた。次点のD10、D9を見て唸った。赤石岳聖岳荒川岳悪沢岳)、塩見岳南アルプス中部南部の3000m級がずらりと勢ぞろいしていた。

初めて北岳の山頂に立った時、その南部に連なる山の塊に呆れを通り越し畏れを抱いた。山は重畳と重なり合っていた。南北に長い南アルプス主脈の最北のピークが北岳で、そこから長い山脈は天竜川水系に寄り添って太平洋に落ちるまで果て無く続くのだった。南アルプス赤石山脈。そういわれる盟主・赤石岳は日本第二の高峰である北岳からでも見えないのかもしれなかった。あそこへ行ったらもう無事に帰ってこれないのではないか、そんな怖れを感じたのだった。

それから機会を改めて何かに憑かれたかのようにそんな南アルプスの中部南部を目指した。北岳から明瞭に視認できる最南端の山は塩見岳だろうか、その奥は遠すぎて一本の線になってしまうのだ。

塩見岳は遠かった。北岳の肩ででテントを張り、翌日は塩見岳に近づく日。日本第二のピーク・北岳と第四の山・間ノ岳を歩き塩見岳を目指す長い仙塩尾根を歩くのだ。登山口から間ノ岳まで歩くペースが近かった単独行と、時折話しながら歩いたのだった。年齢は自分に近い彼は折を見てはスケッチブックを開いていた。農鳥岳を目指す彼とは間ノ岳の山頂でお別れだった。彼は南へ自分は西へ。刹那の友であったがお互いの行程の無事を祈り手を振って別れた。少し寂しさを覚えたのはいくばくかの感傷に加えこの先の長いルートで自分を待つであろう孤独感もあったのだろう。

ハイマツのくぼ地にテント場があった。海抜2500mを超えた稜線でありながら冷たくて豊富な流水が出る熊の平は別天地と言えた。

朝日を浴びた塩見岳の姿を説明する形容詞を自分は持ち合わせていなかった。深田久弥の本に書かれているように「漆黒の鉄兜」が遥か稜線の先にドンと構えていた。北面のバットレスが人を寄せ付けないかの如く威圧的だった。あの頂上に今日立つのか、そう思うだけで身震いがした。歩けども歩けども近づかず。風景に変化が無いとはこの事だった。

脆い岩質だったと思う。注意深く登って塩見岳の山頂に立ったのは午後も遅かった。ここから遥かに眺める北岳がまた素晴らしかった。旅の起点はあそこだった。

三伏峠の小屋まで進んで、小屋への素泊まりとした。その晩は夕立が激しくテントをやめたのは正解だと思ったが、疲れ切ってテントを張る気力が無かったというべきだった。翌朝長い下り坂を降りてバスの来る谷に至った。飯田線に乗り中央本線経由で家路についた。首を捻じ曲げ塩見岳を車窓から見ようとしたが、余りに深い場所にあるあの山を見ることなど甲斐なしだった。

パンフレットの難易度E8、全くその通りだったと四つ折りの紙を閉じながら思った。あの立派な鉄兜を再び眺めてみたいものだ。もうあの行程を歩けるとは思えないが何処かに楽に行ける知られざるポイントは無いだろうか。地図を広げながらそんな空想をすることも楽しい。

熊ノ平で迎えた山旅三日目。朝露に濡れたテントを片付けながら長い尾根のその先に「漆黒の鉄兜」を見た。その余りの遠さに畏れ入った。今日、あそこに立つ。