学期の変わり目に春恵はクラスでこう紹介された。
春恵ちゃんは今日から転校しますと。みんなさようならをしてください、と。春恵の行き先は特別支援学校だった。発達が少し遅れていますから学校を変わってゆっくり勉強しましょう、と言われていた。
先生は校舎の外でこう言う。「心配しないでください。良い学校なんですよ。そこに通うお友達と保護者さんが見えてますよ。」
グレンチェックのジャケットを着た男性に手を引かれた女の子がそこにいた。髪の毛をおさげにした彼女の見た目は何も変わらない。口ひげを生やしたその男性は優しく笑い言う。ようこそ、私とさあ行きましょう、という。今日からお友達ですね。しかし春恵はとても器用にスマホでゲームをする。彼女の何処が発達障害なのだろう。
僕の頬には涙が流れた。春に生まれた彼女には多くの恵みがあるように、そう名付けたのだった。彼女の履歴書について考えた。これからこの子の履歴書の小学校の名前にはこれから行くこの学校の名前が記載される。それは一生ついて回る。就職は、結婚は、できるのだろうか。何がいけなかったのだろう。
尿意で目が覚めた。明け方だ。これは夢だった。娘は一浪して都内の大学に入り、公務員となった。そして結婚もした。なのになぜこんな夢なのか。
すぐに妻に言った。すると彼女はこう言う。「春恵のことが心配なのね」と。
僕はもう六十歳を超えている。なぜこんな夢を見たのだろう。
心とは複雑だ。適応障害で苦しみ会社を辞めた。すると癌になった。そこからから戻り還暦を超えた自分は、残された時間が有限であるならばいつとは知らぬその果てまで楽しもうと思っている。一歩として住み慣れた気ぜわしい街を離れ高原に移り住んだ。さらなる困難、予期せぬ苦難もあるだろうか。
心の何処かで何か心配事は…。ある。自分と家族の健康。結婚して家庭を持った二人の娘たち家族の安泰。そして大げさだが孫のその先まで持ちこたえることができるのだろうか、地球環境は。もっとある。若い世代は誰もがSNSを通じて自分自身を演ずるという。アバターは日常の中に在るという。その日常も半ばメタバースだ。ネットゲームでつながる、SNSで演ずる。実体は何処にある?すべてが仮想だ。演ずる日々の中で消耗しないのだろうか?そんな中を若い世代はどう生きるのだろう。
さまざまな不安や願いが潜在意識として大脳皮質の奥に根付いている。そしてそれがふとしたきっかけで顔を見せる。自分は今何ができるのだろうか。
春恵からラインが来た。お正月旦那と遊びに行って良い?勿論だよ、と僕は答えた。