日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

彼女の作品

娘は女子大の付属高校に進んだ。彼女が何故その学校を選んだのかは分からぬが確かに自分はそこを勧めた。中学から入学すればとも言った。その大学は漫画家・高橋留美子の母校でもある。高校生の頃にクラスメイトから教えてもらった彼女の漫画にすっかり僕は虜になってしまい、コミックスは買いアニメのセル画まで買う始末だった。

中学から入学すると良いだろうなと思ったのは辛い受験は一回きりで終えたら、と思ったからだろう。いつか本人もその気になっていた。しかし彼女が小六の秋に自分はドイツへ転勤となりひと月遅れて一家が北緯五十度の街へ引っ越してきた。娘は受験を諦めたが、悔しかったのかホッとしたのかは分からない。

現地の中学校では日本人の学習塾に通っていた。この頃から娘は家族との行動を嫌がるようになっていた。自分の過干渉か。いや、彼女なりの反抗期だったのか。小学生の頃娘が目指していた大学には付属高校もあり彼女はそこを目指していた。三年間などあっという間で夏休みと正月休みには独りで日本に帰国し塾へ通っていた。春が来て彼女は憧れの高校に入学した。そこは敷地内に学生寮がありそこに入寮した。次女が小学校卒業するまでの一年間は寂しくなるねと心配するとむしろ嬉しそうだった。

次女が小学校を卒業し彼女と妻は帰国した。再び自分はヨーロッパで独りになった。任が解けて帰国すると二人の娘は随分と成長していた。特に長女は大人びたように思えた。一人での日本への塾通い、寮での一人住まい、それが彼女を変えたように思えた。小学生のころからマーチングバンドでトロンボーンを吹いていたが今や女子大付属高校の吹奏楽部員だった。彼女は譜面を読めるのだろうか?質問しても面倒臭そうに答えるだけだった。傍目には吹奏楽で女子高生活を楽しんでいるようにみえた。

目白にある女子大にはエスカーレータだが成績順に希望学部に行くようだった。家政学部というのが人気のようだが娘にお鉢は回らなかった。彼女は文学部を選んでいた。就職は出来るのか?と思ったがそれも余計なお世話だった。

自分たち夫婦は都会から山が見える海抜九百メートルの地に引っ越した。荷ほどきをしていると妻が言うのだった。あの娘が書いた小説が出てきたよ、と。娘から聞いたことがある。学校のコンテストで神奈川県の優秀賞を取ったと。読ませてと言うと冗談言わないでと断られたのだった。娘の書いたものを読むなど悪い気がするし気恥しい。しかし僕は驚いた。

言葉の使い方、比喩暗喩、構成力、全てが素晴らしかった。この小説の主人公は娘なのだろうか。彼女は何時こんな感受性を持ったのだろう、十七歳とは思えなかった。子供を外部に対して褒めるのは自分の世代の日本人ならあまりしない。しかし正直自分は感嘆した。自分とて下手な文章を書く。とても彼女の足下には及ばない。それが嬉しくもあるがむしろ悔しかった。そんな思いが湧くとは不思議だった。

彼女は三年前に会社で知り合った男性と結婚したが今も小説を書いているのだろうか。会社生活は彼女の望むものだったのか、それも解らない。僕は彼女を目指したいと思う。あんなふうに書きたいと思う。今の僕にあんな感性はあるのかと思うならば老いてしまった自分が少し寂しい。

引越しの際に高橋留美子の数冊のコミックスをどうしようかと迷った。娘に話すと要らないなら貰うよ、と短い答えがあった。彼女はいつもそんな風に少ない言葉の中で自分を表現していたな、と今改めて気づいた。自分は彼女の何も知らないのだった。そしてとうに籠から羽ばたいていた。

コミックスと自宅に置いてあったトロンボーンを手に娘は旦那様とローンを組んだという家に帰っていった。僕はコミック誌を手放したことが何故か惜しいのだった。閉じられた彼女の作品の載った冊子を本棚の手の届きやすい場所にそっと置いた。