日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

創作・糸かがり

一日がノートの一枚のページだとすれば、過ぎし日々はそれを綴じたものといえる。それを本と言うならば、その本は聖書や広辞苑のように分厚いだろう。

一人息子は栃木県の地方銀行に就職していた。賢一の住む横浜からは近くはない。なぜ栃木なのか賢一には分からなかった。息子に問うても栃木が好きだからと言うくらいだった。山好きな賢一には栃木は馴染みだった。「渡良瀬橋」という切なく甘い歌が彼の部屋から漏れてくるたび、渡良瀬川とその奥に幾重にも重なる山々の風景が賢一の頭に浮かぶ。

息子は栃木県の支店に配属された。一人住まいだった。賢一の妻は息子が居なくなるのは寂しいと言ったが、自分達もそうして独り立ちしたと一人納得していた。

嬉しそうに荷造りをする息子を見ながら、もしや、と思い聞いてみた。やはりそうだった。栃木に「彼女」が居るという話だった。大学の同級生だというその娘さんは地元で教員になり、息子は彼女と離れぬよう彼女の地元の銀行に就職したのだった。ぼんやりと育ってきた息子にしてはよくぞそこまで純愛を貫いたな、と賢一は嬉しかった。ネットで見知らぬ者同士が出会い結ばれる、という時代にしては古風でもあり直球でもあった。

秋の連休に学生時代の友人・隆司が広島から遊びにやって来た。中学・高校を岡山で過ごした賢一にとり近しい言葉で話せる隆司とは入学式の日からすぐに打ち解けた。彼の一人娘が千葉のテーマパークに行きたいという事での旅行だった。賢一の願い通り隆司は家族より一日早くやってきた。

賢一と隆司の再会は三十年振りだった。その日は二人でお互いが住んでいた街を訪れた。私鉄沿線の街だった。駅前商店街を進むと、懐かしい建物があった。隆司がアルバイトで働いていたスーパーマーケット。店名は変わっていたが建物はそのままだった。当時お互いに十九歳だった。隆司はそこでのパート仲間の女子高生に惚れてしまい、いつしか大学の講義は放り出してしまった。女子高生と共に商品の出し入れや特売品の箱を準備したりするのが隆司の生きがいになっていたようだ。心配した賢一が覗きに行くと、緑の前掛けをしたポニーテイルの整った顔立ちの女子高生と、そしていつも明るいのだがそれ以上の輝きを太陽の様に放ち生き生きと働く友がいた。そこだけ空気の色も温度も違っていた。賢一を見つけて隆司は駆け寄ってこう言うのだった。「今日な、彼女はワシが上げたTシャツを着とるよ。どうじゃ?」 聞かれても羨ましいな、としか言えなかった。澄江さん、という名前だった。ああ、ワシの澄江、かわいいな澄江ちゃん、というのが彼の口癖だった。

賢一の番だった。同じ私鉄を一駅進むと、賢一が青春を過ごした街だった。駅前の登り坂に書店があった。週刊漫画をかかさず買う賢一は、そこに座っている女子学生に釘付けになった。良く動くくるりとした目と流行りの髪型の女子大生だった。胸に付けた名札には酒井さえ子と書かれていた。さえ子というとシャープな感じがするのだが実際の彼女はややぽっちゃりとして愛嬌に溢れていた。なんという健康的な女性だろうか。若者の一目惚れスイッチはここでも簡単に入ってしまった。賢一もまた日々さえ子ちゃんかわいいなぁ、と嘆息をする始末だった。そんな書店はやはり無くなっていた。緩い坂道に在ったのは小さなクリニックだった。ああこんなところだったな、お前のマドンナの本屋は。と隆司は懐かしそうに言った。

道々、話をした。ワシらはなんで成就しなかったのかな?と。

隆司は温かみのある男で上背に恵まれ男前だった。賢一は背も低く太っていた。賢一の理由は明らかで自分に自信がなかった。その劣等感を他のエネルギーに転化する術も当時は持ち合わせていなかった。

隆司はまずは女性馴れしている他の友の意見を取り入れTシャツを買い、澄江さんにプレゼントしこう続けたという。「今度なぁ澄江ちゃん、どこかに出かけような」と。その答えが彼女の着ていたTシャツだった。しかしその後はなかった。聞けばそこから先に誘うことを諦めたと言う。隆司は吹っ切れたように学業に戻ってきた。

賢一は書店通いだった。本を買うのではなくただレジで数言話しかける為だった。話題はあったのか、ただ多分顔は真っ赤だった事、ある日彼女がくれた一枚の写真は覚えていた。それは彼女が旅先の京都で撮ったという彼女自身の写真だった。可愛かった。賢一の心は天に昇ったがやはりそこから先はなかった。私今度先輩とデートに行くのよ。そうさえ子は言った。賢一もまたボールを投げ返すこともなく自分で幕を引いてしまった。今思えばそのデートの話は本当ではなかったのかもしれない。しびれを切らしたのかもしれない。

- 結局さ、怖かったのよ。何したら良いのかもわからなくて。逃げ出したのよ。
- 自分のような不細工な男を相手にしてくれる女性がいるとは思わんかった。冗談だろうと思ったよ。それに真の自分をさらすのが怖かったよ。ワシも逃げたんよ。

二人とも同じ理由だった。意を決してルビコン川を渡ることは出来なかったのだ。一枚一枚と積み重ねていけたはずのページの綴じ糸を自ら切ってしまったのだ。糸かがりは寂しくふらふらと揺れてしまった。それを定めと思った賢一もまた悲しいものだった。老境に足を突っ込んでいる今の二人にしてみればほろ苦い笑い話だった。傷つくのも怖く、自意識という尖った矢が無遠慮に心を刺していたのだろう。

初恋というのは面白いもので、二人とも似た面影を追うのだと賢一は思う。隆司の結婚相手はやはり目鼻の整った狐顔の美しい女性で、賢一は愛嬌が唯一のとりえと思える狸顔の女性と結婚した。

若き日にそんな悩みが友達だったという事は本人達の胸の中の秘め事だ。翌日広島から上京してきた隆司の家族を賢一は出迎えた。温かい家族の空気が駅の改札口を包み込んだ。その真ん中に隆司がいるのだった。

秋風に乗るように息子から「結婚することにした」という嬉しい話が舞ってきた。一人息子が渡良瀬川を渡って彼女の街へ行ったことを、天晴れよくやった、と唸った。賢一は川を渡れなかったのだ。歌の歌詞とは正反対の、幸せで明るさに満ちた結末だった。彼は綴じ糸を手放すことなく見事に縫い重ね、青年期の彼の本を完結させたのだろう。

二人の若き日の本は糸かがりがほつれて切れたのではなく、若さゆえに自ら切ってしまった。もう僕たちは綴り続けている糸を自ら切ることはないだろう。ただただページを重ねていくだけだから。

 

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