「あそ」と言えば「阿蘇」、九州か。雄大な阿蘇山の草千里は行ってみたい。憧憬の地でもある。しかしもう一つ同じ呼び名の地があった。「安蘇」だ。
安蘇という地名を知っている方は多くは無いだろう。今は消滅してしまったのだから。安蘇は栃木県にかつて存在していた行政郡。場所を大まかに言うならば、JR両毛線の北側、東武日光線の西側になる。最後まで残っていた安蘇郡田沼町と葛生町の二つの町は2005年に佐野市に吸収され、安蘇郡は消えた。現存する市に落とし込むなら、旧・安蘇郡は栃木市、佐野市、足利市、鹿沼市あたりの一部。また一部は隣県群馬の桐生市あたりではなかったのだろうか。
自分の安蘇の記憶は埃っぽい事。安蘇の山は石灰岩が採掘出来る。採掘現場やセメント工場も多い。粉塵が絶えず舞うので舗装道路は黄色く埃っぽい。採掘のダイナマイトの音が聞こえてくる。バイクツーリングで初めて訪れた1980年代の葛生町の印象だった。
そんな安蘇に惹かれたのは何故だろう。栃木は学生時代の友人の出身地で、地名と土地に憧れがあった。また山登りの対象として、小さいながらもピリリと辛い山が多く楽しい。佐野はラーメンの宝庫でもある。
地味ながら味わい深い山。登山者の間ではそんな山々は「篤志家の山」と呼ばれている。安蘇はまさに篤志家の山々だった。分県登山ガイド・「栃木県の山」(山と渓谷社)や「栃木の山120」(随想社)あたりが格好の参考書で、安蘇エリアの山を選んで通う事が多かった。交錯する里道、希薄な踏み跡、視界の効かない植林帯、そして随所に現れる岩場。広葉樹の明るい山もあるにはあるが、パズルを解くようにして歩く阿蘇の山は読図トレーニングにもなるし「ヤマカン」を養うには持ってこいだった。
安蘇の山と一口に言っても数は多い。出来るだけマメに登ったが、残った中で気になる山があった。足利の裏山、行道山だ。ガイドブックには冬枯れの尾根道の写真が掲載され、安蘇の山にしては雑木林の心地よさが感じられた。広葉樹ならば、秋は最高だろう、と朝早い宇都宮線の人となった。
足利駅から一日数本の市民バスを捉えて、北の谷筋へ向かった。山間の広場でバスは終点、そこからは古刹へ向けての登り道。長い石段の先は行基上人が開山したという浄因寺で関東高野山と呼ばれているという。寺の裏手からは本格的な山道となる。春はトウゴクミツバツツジの名所と言うが、秋は落ち葉の舞う登山道だ。
稜線に上がり、ここからは足利駅に向けて尾根を南下していく。行道山(442m)、大岩山(417m)、両崖山(251m)、織姫山(118m)と長い雑木林の道は落ち葉の黄金のプロムナードだった。そう書くと優しい散歩道となってしまうが、そこは縦走。それぞれのピークの前後はしっかりと絞られる。随所に現れる岩場も、ここが安蘇の山であるという証と言えた。沈むゆく秋の日を前にして歩く雑木林の山は、誰でも詩の一つでも考えたくなるような美しさがある。取り巻く空気も寒くもなく心地よかった。山を歩く幸せが、そこには在った。
足利の駅に下りて、今日の安蘇の山旅は終わった。両毛線で二駅、佐野に出てラーメンを食べてから帰宅しよう。
「安蘇」、良い名前だ。この地名がまだ一般に住民の中の記憶に残っているのかは、圏外者の自分にはわからない。ただ由緒ある昔の地名が消えていくのは寂しい。消えゆくものに共感と寂しさを覚えるのは古来からの日本人の心情だろう。秋の尾根道で、そんな消えたものへの懐古が湧いた。
「しもつけ」と言う更に昔の一帯の国名が、「下野新聞」として地元の地方新聞として残っているのを見ると安心する。佐野のラーメン屋にも折りたたまれた下野新聞は置いてあるだろう。ビール片手にそれを広げてラーメンを待つだろう。
どうか、素敵な地名は消さずに、不運にして消えた地名は、覚えていてほしい。ただの旅人からのお願いだ。
・行道山ハイキングルート
バス停終点・行道からは林道を登り、荷揚げ用モノラックを左手に見ながら長い階段。浄因寺の裏手から登山道。寝釈迦と言われる石仏群を見て稜線にあがる。時折林道が交錯するがわかりやすい尾根道が織姫山まで続く。数年前の足利の山火事はこの稜線よりも西側という。唯一両崖山山頂にその痕跡があった。織姫山は車道が上がり、ここからは神社の階段を降りて足利市内へ。
合計時間: 6時間13分(休憩含む)、歩行距離: 10.25km、累積標高 (上り): 827m 累積標高 (下り): 878m