日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

聖母様

手ほどきの本を読む限り、マリア様、磔刑後に復活したイエスに従ったマグダラのマリアではなく、イエスの母とされる聖母マリア様についての新約聖書の記載は少ないという。信者でもなく神学に無縁な自分は、確認もしていないしそれが何故だか分からない。しかしこれだけは分かる。女性はあまねく、聖母様ではないかと。

勤務する地元の方のための地域交流施設に、時々保育園児が遊びに来る。お母さんは三十歳を少し超えた年齢ではないか、と思う。その子が遊びに来ると事務所の職員が皆、ゆう君おいで、と仕事を放り出して玄関に出ていくのだ。くりくりとした目、短い脚をちょこちょこ動かして転びそうに歩くから誰もが手を出してしまう。皆一応に「かわいいわぁ、大きくなったねぇ」。と、ふだん気合を入れて働いている彼女たちとはにわかにつながらない一面を見せてくれる。

トトロが欲しいの? メイチャン?

縫物・編み物の上手な職員が作った綿詰めのお人形は、彼のお気に入りだった。はじめて見た時には女の子だと思った。天然パーマだろうくるくるした髪の毛を上手に巻いてリボンの髪留めで止めているのだから。可愛く髪型をまとめているのはお母さんの趣味だろう。なによりも溺愛の息子であろうことは見ていてすぐわかる。丁度片言を話し始める年齢なのか、彼の一挙手一投足は自分も可愛いと思う。しかし職員さんたちのような黄色い声はとても出ない。

きびきびと優しく高齢者に対応をするデイサービス職員も、担当のご高齢者にいつもよりそい万事問題ないかを考えるケアマネジャーも、様々な地域交流団体をオーガナイズするコーディネイターも、ゆう君が来たら一時休業となってしまう。結婚していようといまいと、子供が居ようといまいと、孫が居ようといまいと、彼女たちすべてが、優しく子供に接する姿は素晴らしい。

妻もそうだ。街角で小さな赤子などをみると、あら可愛いと甲斐甲斐しい顔を見せるのだ。人の子だろう、と自分は思う。

生殖器や骨格の堅牢さ、筋肉量などは異なっているものの同じ人間なのだ。個人差はあろうが男には人の子供にあそこまで溶け込むような愛情はわかないしましてや表現も出来ない。それは自分の感受性が低いからか、とも思ってしまう。

ヨーロッパのいくつかの美術館で数多くのマリア様の絵を見てきた。慈愛がそこには描かれていた。聖母マリア様は中世画家にとって格好のイマジネーションの泉だったと思われる。聖書の中には彼女の記載が余りないというのだから、イメージは画家の中で膨らむだろう。しかし多くの画家は男性だ。きっと彼らの母を思い浮かべているのかもしれない。

結局自分には何かが足りないのだ。母が持つ価値観が嫌いで自分は妻と家庭を持ったころから意図的に母とは距離を置いてきた。そんな自分には分からない世界があるのかもしれない。

今日はゆう君は職場に来るのだろうか。手放しで愛情表現が出来ない自分には手のひらを返したような対応をする女性職員に次回からどうやって接したらよいのかがわからない。次元の違う何かを感じている。年齢を経た今も、何をしたらよいか分からない。

女性には聖母があまねく宿っているのだ。距離を置いている母から自分は産まれた。家庭を持ち30年以上過ごせたのは妻のお陰だ。今の自分はその上に在ると知る。

 

 

ブナの樹は森の聖母と言われている。確かに森の中でそれは豊かな表情と温かみを感じさせる。そして落葉とドングリは森をはぐくみ動物を育てる。そうなのだ、それはきっと女性と同じだろう。男性にはない、母性だ。

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