子供の使うビニールのプールに水を張り、ゴムの風船を浮かべる。その口の輪ゴムを竹ひごなどで引っかける。上手く釣れるだろうか。そんな遊びをしたのは子供の頃だった。水ヨーヨー釣りだった。
そんな水ヨーヨーが車のリアシートにポツンと忘れさられていた。
その日、母は数日間に限って宿泊できる施設での滞在を終えて、長期間の入所が可能な新しい施設へ移動するのだった。すっかり足腰の弱くなった母は車いすだが歩行には人の手が必要だった。それに加え父の逝去と言う出来事で気落ちしたのかここ数日見る間に小さくなってしまった。元気になるまでは、少なくとも暑い夏のうちは施設で暮らしてもらいたい。そう思い新しい施設に向かうのだった。しかし確実に衰えてくる歩行機能と日常動作を前にして、それが最後の住処かもしれなと、どこかで感じている。
施設の玄関では数日間お世話してくれた職員さんが手を握って見送ってくれた。母の手には水ヨーヨーがあった。その日は施設の夏祭りで朝一番で施設を退所する母は特別に独りで水ヨーヨーをやらせてもらったらしい。職員さんに手を振り、母は車に乗りヨーヨを手に新しい施設へ向かった。涙を少し浮かべていたのはお世話になった職員さんへの感謝と惜別の寂しさだろう。ヨーヨーを持つ母は白髪の幼女だった。
母が新しい施設のエレベータに消えてから車に戻って水ヨーヨーに気づいたのだった。揺れるリアシートの上を水ヨーヨーは所在なさそうに動くのだ。何故か寂しくなった。施設に戻しても仕方ないだろう。自宅の部屋に置いてある。
水に浮かんでこその水ヨーヨーだった。空気は少しづつ漏れていきそれは小さくなっていく。ああ、何という事をしたのか。自宅で住みたい思いが強い母は一度は転倒を機会に入所した施設から帰ってきた。しかし訃報に触れまた動けなくなった。また施設だ。もしかしたらそこでずっと過ごすのかもしれない。しかし他に何が出来ただろう。今僕にできる事は、水ヨーヨーを割らないようにすることだろう。できれば洗面器に水を張り浮かべる事だろう。
毎日ヨーヨーを見ている。虚しさの向こうにあるのは、何だろう。