日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅17 銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜宮沢賢治福武書店・1987年)

岩手県の山は数えるしか登ったことが無い。岩手山早池峰山、八幡平、そしてこれは三県にまたがるが栗駒山。その程度だ。まだまだ登りたい山が岩手に沢山ある。奥羽山脈は南北に長く、その一派。とりわけ盛岡市から見る岩手山は見事で岩手人にとっての立派な富士だと思う。それは南部富士と言われている。その登山には、新宿からの夜行バスを用いた。早朝の盛岡の駅で長距離バスを降りた。駅のコンコースを歩いていると「IGRいわて銀河鉄道」の改札があった。そうだ、新幹線が北に伸びて国鉄からJRと引き継がれた東北本線は新幹線の駅の間は分断され第三セクターになったのだ。そして、思った。銀河鉄道か。岩手は宮沢賢治の生まれた県、童話の国、だと。童話作家である宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は読んだ記憶が無い。鉄道の会社名にまで冠されているほどだ。何か大きな忘れ物をしていた、そんな気がした。

手にした本は同作を含む掌編集だった。クラムボンは笑ったよ、であまりに有名な「やまなし」も、そして誰もが一度は読んでいるだろう「セロ弾きのゴーシュ」も収められていた。「やまなし」は娘の小学校の教科書にも出ていた。クラムボンってなぁに?と娘に聞かれて答えられなかった。自分もしっかり読まなかったのだろう。あらためて読んで、魅きこまれた。川底に棲む兄弟の蟹。水底から見上げる未知の外界。頭上を泳ぐ魚はかわせみに獲られてしまい兄弟は恐れる。そして今度は熟した果物・やまなしが川に落ちてきた。蟹の親子は良い匂いに喜ぶ。しかしクラムボンが何だったのか、今回読んでもわからなかった。「これは理解するべきものではないのだろう」、そう思った。

銀河鉄道の夜。空想の鉄道に乗り、次元を超えた旅に出るジョバンニとカムパネルラ。比喩や造語も多く、集中力の失われてきた今の自分にはなかなか読み進むのが辛かった。ただ、天の川について、「夜空はがらんとした冷たいものではなく、小さな林や牧場のある野原に見える」、そんな記述が、心に残った。夜空が野原に見える、そんな純粋な感性があるのだと。それを失った大人は、多分読んでも分からないのだろうと。ここでもまた思った。「これは理解するべきではなく、感じるべきものだろう」と。ただ、物語の最後に友を助けに水に入ったカムパネルラの死というカタストロフィーを持ってきたこと、その意図は何なのか考えた。何かの戒めなのか、生のはかなさなのか。主人公のジョバンニとはイタリア人の名前だが、これをラテン語ヨハネ、つまりは新約聖書の登場人物、ヨハネとするならばどうだろう。洗礼者ヨハネなのか、十二使徒の高弟ヨハネなのかは分からない。しかしイエス・キリストの話につながるのならば、自己犠牲がテーマなのかとも思える。

これら話を読むのに、多分もっとも不要なことはこの感受性あふれる世界に「解釈をはめる」と言う事だろう。それは無為だ。どうしたらこんな文が書けるのだろう。成人にしてこんなに豊かな想像、それは傷のついていない童心に裏付けされたもの。それは今もこれからも瑞々しいままだろう。

自分達大人は、社会と言う荒波を航海する中で、ロジックという鎧兜を纏ってしまった。もともとは裸でひどく脆い存在だった筈だ。そんな素の人間には、きっと通じるのだろう。余りに成熟してしまった自分が、すこしばかり、恨めしくなった。

児童文学のはずだった。しかし読み進めるのにひどく集中力を使った。それは理解しようとしたからだろう。その無為を悟った。

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