日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅33 金閣寺 三島由紀夫

金閣寺 三島由紀夫 新潮社1990年

怖かった。書棚に近づけなかった。いつも見ないふりをして通り過ぎていた。それでいいのか、という声がしたが無視していた。これを読んだら自分も肉体改造にいそしみ、結社を作り、日本刀を片手に何処かに殴り込むのではないか、と。それほどの未知なる影響力をミシマという三文字に抱いていた。

潮騒を読んだのは何時だろう。あまり覚えていないが男女の純愛を越えた何かを感じた。下着が濡れる、そんな感覚を覚えたのだから小学生高学年だったに違いない。

小説・金閣寺は実際の事件をモチーフに三島由紀夫が造り上げた世界だった。主人公の告白というかたちで話は進む。日本海に面した寺で生まれた主人公は鹿苑寺金閣に修行に出る。吃音という障害を持つ彼。それは劣等感となり彼の心の足かせになる。そんな彼はそれ故にいつしか金閣寺を神格化したのだろう。彼の中では金閣寺は絶対の美だった。若い修行の身である。女性と知り合い、如何に女体を識るか、それは人間である以上永遠のテーマだろう。主人公は自らの障害をみつめながら欲望について考える。友人が機会を幾度も用意するがいざその時に彼の頭をよぎるのは金閣寺であった。絶対の美が彼を不能にした。数度にわたり金閣寺がすべてを無に戻す。彼は自分の母の、そして老師の不義を知る。彼は六十過ぎの寡婦と関係を持った。老いた寡婦の前でなら肉体が精神を裏切らないと知ったのだった。克服できないコンプレックスはいつか金閣寺を破壊しようという思想に行きつく。放火して燃え盛る楼閣で彼も死のうとするが、生を選ぶ。

生と性。日本ではむしろタブーとされている話題かもしれない。しかし六十年も生きていると誰もが概ね知っているだろう。両者は切っても切れない表裏であると。タブーは何もないと。作者は輝くような美しい日本語でその世界に踏み込んでいる。素晴らしいと思ったが、同時にその美学の痙さは自分には遠いものだと思った。

自分が小学高六年生の時。学級担任は岩手は遠野のご出身の方だった。まだ若い彼は新卒何年目だったのだろう。素朴で体の大きな先生だった。遠野出身なのに宮沢賢治の話はあまりしなかったと思う。むしろ頭に残るのは違っていた。彼は何処かに書いたのか、授業中に語ったのか、定かではない。ただ彼に影響を与えた書物はミシマユキオという作家のホウジョウノウミという作品だった、という話は克明に覚えている。

自分の娘は国文学を学んだ。彼女の卒業論文のテーマは三島由紀夫だった。すると自分の知らぬ世界を一通り読んだのだろう。一体彼女は何を感じ、それが今の彼女の何になっているのかと思う。しかしそんな想像も無駄な話だった。本を読みどうとらえるかは個人の問題だった。人間は無垢で生まれすべてを知り死んでいく。死ぬことを知っているから苦しむ。人間の生きる力とは、エネルギーは何処から生まれるのだろう。

その答えは彼の本に在るのかもしれない。今ならわかるだろう。「仮面の告白」を再度読む、あるいは、恩師が薦めてくれた「豊饒の海」に手を出すことはあるのだろうか。齢六十を超えた。もう暫く生きる力が僕にはある。後年三島由紀夫がなぜ体を鍛え、盾の会を結成し自衛隊自死したのかも知らない。彼の書を読むと一瞬でも死が美しくも思えてしまう。やはり怖い。不思議な力だと思う。

借りた単行本は1990年版。黄色い表紙に金色の箔で Mishima とだけ描かれている。これは彼のサインを型どったのだろうか。やはり異彩を放つ異才だと思う。

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