初めて六本木に行ったのは十八歳だった。学生仲間でもお洒落な奴や好奇心のある奴らはディスコに行っていた。しかし自分はそんな場所は怖かった。何より女性に話しかける勇気もなく、振り絞って行っても歯牙にもかからぬだろう。容姿が劣っているという点が全ての自分の行動の足かせになっていた。その年齢で既に自分は諦めを知っていた。
噂に聞く六本木。遊び慣れた大人の街。大学は渋谷にあったが自分の学年から基礎課程の二年間はなぜか厚木の新キャンパスだった。自分は神奈川県中部の相模川が流れる街のアパートを借りた。隣室の住人は宮城県の男子高校から来た男だった。学部は違うが同じ厚木一回生。男子校卒業ということもあるのか彼は自分と同じく、いやそれ以上に女性への免疫が無かった。
このままではまずいな、となりまずは噂に聞く六本木という街に行こうではないか。となった。奴と連れ立って地下鉄の駅を出た。あの交差点だ。大学がある渋谷よりも遊び慣れた人の街だなと思った。芋洗坂の横にはアマンドという喫茶店がありそこは男女の待ち合わせのメッカだった。そこは怖くて入れなかった。その隣の喫茶店だったか。野暮ったい男二人で入ったのだから全く冴えない光景だった。メニューを持ってくる女性もお高い感じのように思えた。メニューを開いてもわからない単語が並んでいた。友はアップルタイザーを頼んだ。僕はままよ、とメニューを適当に指さした。ペリエとあった。
何がでてくるのか見当もつかない。レモンを添えたグラスに緑色の缶が来た。スプライトか?と思ったが味がなかった。不味かった。ただの炭酸水だった。これに四百円か。とがっかりした。
ヨーロッパで生活を始めてから、水は蛇口を開けて飲むものからボトルを買って飲むものに変わった。それは炭酸水だった。苦手意識のある炭酸水だったが飲んでみるとドイツの乾いた夏にはとても美味しいものだった。南へ下がったフランスやイタリアでも美味しかった。ゲロルシュタイナー、バドワ、サンペリグリノ、そしてペリエ・・。ドイツではボトルごとリサイクルをするケース買い、フランスは捨てるだけのシュリンクパック。それぞれ6本セットで買っていた。ペリエは何故か手が出ずにバドワばかりだった。
日本に帰国した頃はまだ炭酸水ボトルなどさほど見かけなかった。、がこの五、六年で大きく変わった。今では五十円以下で五百CCのペットボトルが買える。一年中それになったがやがてカートリッジに入った炭酸ガスを自分で入れ炭酸水を作る装置を買った。好みのガス濃度が作れるが強炭酸を狙いすぎるとカートリッジがすぐになくなる。
断捨離をする中で、壊れたエアコンや使わぬ家具を産廃業者に片付けて頂いた。暑いさなか彼は太い腕っぷしでエアコンを外して室外機と共に持って降ろしていた。他にも不要なものを処分してもらった。これで無料回収なのだからそのビジネスモデルは解らぬがどこかでお金になるのだろう。汗だくの彼は積み残しが無いかを確認してトラックに乗り込むところだった。自分は慌てて冷蔵庫から持ってきて、ガーッと飲んでくださいと手渡した。それは炭酸水のペットボトルだった。彼は笑いキャップをひねり一気に半分飲んでいた。何か羨ましものを感じた。
アパートの隣室の男は空手部に入部して克己の名のもと自らを鍛えていた。そうすることで彼は自らの殻を破ろうとしていたのだと思う。彼が何処かの大会で組み手の相手に鬼の形相で正拳突きをしている写真が記憶に残る。まさに何かを壊していた。産廃業者の彼は仕事を終え一気に自分をリフレッシュしていたように思えた。自分は今も外出先で喉が渇くとすぐに炭酸水を買う。ごくごくと飲んで何かを流す。何を流しているのだろうと改めて思うと、十八歳から続く自分自身の不甲斐なさなのだろう、と思う。出来ればあのペリエを飲み干そうと思うのだが、近所の店では手に入らない。高級スーパーも縁がない。結局自分は何かを乗り越えるのか。殻を壊したのだろうか。
これからいくら飲んでも、わからないのかもしれない。もしかしたらもう何かをすでに乗り越えているのかもしれないが、それもわからない。ただ水が美味しい、それだけだった。