日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

迷い道

どこかで道を間違えたのだろうか。会社を早期退職し第2の人生が始まろうとする辺りから自分の周りには予期せぬ出来事が起きてくる。肉親の死、自身の病、そんな風に大切な人も自分も少しづつ世を去りあるいは病になっていく。どこかで足を外し違った道と気づかずに歩き進めてしまい、もう戻れなくなったのだろうか?幸せの青い鳥は手の隙間からどこかへとんでいってしまったのだろうか?これが自分のせいならば神はなんという無慈悲な罰を与えるのだろう。

わからない。全く分からない。ただ、うろたえている。それが最近の自分の日々だった。嫌な気持ちを引き延ばしてみる。薄くなった記憶の生地の隙間からある光景を思い出した。山登りの風景だった。

どんな山でも必ず緊張する箇所がある。それは沢の横断であり、急な谷をトラバースするときであり、固定ザイルや鎖をも頼りに三点確保で登る岩場の尾根や岸壁の縁だろう。

ガレ場を横切る場所だった。それは山崩れによって山体崩壊をし岩や小石が雪崩のように流れている場所だった。「薙(なぎ)」と呼ばれる地形だった。30度近い傾斜地だ。何処を踏んでも、ステップを作ろうと踏み込んでも足元の岩と小石、砂は頼りなさそうに下に流れていくのだった。これを横切るのか、と途方に暮れた。ゴロゴロと転がってきた大石が坂の途中で辛うじて停まり、そこにはルートを示すペイントが記されていた。あそこまでどうやって進むのだろう。百メートル先の谷底は見えなかった。「岩でできた蟻地獄だ」。そう口にしていた。

一歩一歩、祈る気持ちで歩いた。大岩の向こうにダケカンバが生えていた。脆い岩肌にへばりついているというべきだった。そこまで速足で、しかし確実に歩いた。波を避け間隙を縫って歩いたと言われる越後・市振の「親不知海岸」の海岸のエピソードも頭に浮かんだ。親と子であっても振り返らずに通り過ぎよ、というその岸壁の教えどおりで、自分はただ岩と石の流れを見ながら足を動かすだけだった。ようやくダケカンバの枝につかまった。振り返ると自分の作ったステップが崩れ小さな石となり転々と下に落ちていくのだった。下山でまたこのルートを歩くと思うと気が重かった。

そこから山頂までは近かった。ハイマツ帯に人の声が聞えた。先行する友が下山者と話しているのだった。ひと気の少ない山では万一の遭難に備えて自分の印象を相手に残すことが大切だった。いつかそれは習慣となっていた。友の会話に加わった。通り一遍の「何処から来たか、何処へ向かっているのか」だった。すると彼が口にしたルートは全く彼が降りようとしている道とは異なっていた。

ピストンのルートと言う事で登りに使った道を下山に使う。その道を本人は歩いているつもりだった。「このルートは違いますよ、東に戻るのですよね。これだと南に下りますよ。」と言うと彼はええっと声を上げた。友は地図を示したがはたして彼がそれを理解したのかもわからなかった。

山頂について安堵したのだろう。いざ下山となり、元来た道を戻っているつもりが直角に違う向きの道を下ったのだろう。彼は踵を返していった。あの薙の難所を進む前で良かったね、と友と話した。

道迷いはいつでもありうる。かく言う自分も登山道で迷ったこともあった。多くは獣道や作業道に引っ張られた。それは里山での話だった。当たり前の中に道迷いのトリガーが埋まっているのだった。一度そこに迷い込むと、単なる道迷いではなく「迷い道」の中を突き進むことになる。その先には狼狽・疲労・行動不能と、たいてい良くない結果が待っている。

幸いに三十年以上の山登りを通じてそんな事はなかった。今はGPSのお陰でスマホがあれば迷いようもない。実際の地形での話ならまだやりようはあるだろう。山歩きの風景から日常に想いは戻った。問題は人生と言う道の中での迷い道だった。

心も体も思うようにはいかない。今の自分の行き詰まった思いは、間違えなく何処かで分岐を間違ったのだと思う。今は迷い道の中で喘いでいる。登山で道を失うと、むやみに動き回らずに保温を確保して明るくなったら落ち着いて周りを見るように、と言われる。

深呼吸しよう。目を閉じよう。色々な事が通り過ぎるのを待とう。いや、様々な出来事が起きるという事を受け入れよう。いつか迷い道は解けて、光が見えるはずなのだから。

朽ちかけたダケカンバをつかみ、白くざれた脆い岩場を進むのだった。これは正規の道だが肝を冷やす難所だった。この道に間違って入りこんだ下山者にとりこれはとんでもない「迷い道」だったことだろう。幸いに彼はこの上で道を正すことが出来たのだった。しかし人生の迷い道は時にもっと険しく複雑で残酷だった。心を落ち着けて抜け出さなくてはいけない。

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