都内の西の外れに近い山だった。午後も遅かった。長いハイキングルートも終わりに近づくと右下から鉄道の音が聞こえてきた。里は近いな。と一安心だった。
街着の男女が下から登ってきた。この時間に何処まで行くのだろう。このルートをいまから歩くのか?と思う。登山にしてはあまりにも華奢な格好だった。
山では挨拶は欠かせない。東洋人ではあるが交わす言葉から彼らがエトランジェであることはすぐにわかった。立ち止まって話しかけると綺麗な英語だった。
都心のホテルに泊まっている。日本のカントリーサイドの風景が好きで電車に乗ってやってきた。終点で降りて登ってきた。
簡単なルートの書かれたパンフレットを手にしていた彼らは香港から観光で来たということだった。
コロナでしばらく途絶えていた海外との往来も戻ってきたのか、と素直に嬉しかった。浅草、渋谷、銀座、都内でもそんな通り一遍の目的地でもなく関東平野の西端の山の町に来たのだった。中国の観光客といえばコロナ前はバスを仕立てての爆買いツアーと言われていたが、香港の人は違うのだろうか。
1980年代、出張で訪れた香港は自分にとっての初めての海外だった。香港カーブと呼ばれる急旋回で林立する過密なビルのすぐ上をかすめる啓徳空港へのアプローチもたまげたが、倒れ込むような高層ビル群、忙しく歩く人々、言い争いにしか思えぬ日常会話、漲るエネルギーに圧倒された。ちょうどNICSと呼ばれ始めていた時代でその一員の香港は登り竜だった。
国家体制が変わってから香港の市街地に足を入れたのは一度きりだった。英国の香りと資本主義の自由を謳歌していた街の人々に中国の影が落ちて、街の活気は失われたように思えた。実際この時期に多くの香港の人がカナダやオーストラリアに逃れたという。その後は自分の出張先も中国本土になり香港はそのアプローチの玄関として、通過するだけだった。
香港は体制の変わる前に何度か行ったけどエキサイティングで魅力的な街でしたよ
私達の親の世代ね。私達も将来何処かに移り住みたいと思ってます。日本は清潔で安全ですね。
それ以上の会話はその場では浮かばなかった。何を言ってよいのか、分からなかった。香港のみならずある地に住む人は必ず何らかの地政学の影響を受ける。日本も地政学上様々な懸案がある。はるか西で目下起きている国際紛争はいつ終わるともわからない。
心の地政学について頭に浮かんだのだった。自分の体は脳という名の政府が決めた国策で動いている。これをどう動かすかを決めるのはまた自分だった。なんとか自らが幸せになる策を決めていかなくてはいけない。明るく輝くための施策だ。
二人連れはこの先の道がどうなっているかを不安げに聞いてきた。
本格的な山道になりますよ。暗くなると道も分かりづらいですよ。あと十分くらいで展望台があって東京方面が見えますよ。
じゃあそこまで行って、戻ります。
手を降って別れた。良い決断だと思う。簡単な地図でも日本の山里風景を楽しめたことだろう。安全に下山出来るだろう。香港からの客人が少し豊かな思い出と共に帰国してくれれば嬉しい。
わずかの英会話が自分の脳を活性化してくれた。自分もまた何かを得た。単線のホームに短い編成の電車がやってきた。山の疲れもある。ゆっくり寝て帰ろう。