日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

終わってしまったひな祭り

自分には姉がいた。何故かわからぬが当時流行り始めていた5,6段飾りの雛人形は家にはなかった。桃の節句雛人形が飾られるようになったのは自分が中学生の頃からだった。小さな和室に飾れる小さな数段のお雛様だった。姉が結婚したのは自分が社会人になった年だった。その翌年から雛人形は姿を消してしまった。母が捨てたのだろう。たった一人の娘が嫁に行ったので、もうお雛様には用が無い、そんな思いで処分したのだと思う。そんな姉が数年前に鬼籍に入ってしまったのは、お雛様を捨ててしまったからか?いやそれは邪推だろう。

結婚した時に妻が雛人形を持ってきた。少し古い雛人形はお義母さんからの受け継ぎ物とのことだった。これも数段の小さなお雛様だったが古いお雛様だけあり造りが丁寧で見ていると顔の表情などが綺麗だった。これを家内は毎年玄関の小さな靴棚の上にうまい具合に段をつくり飾っていた。雛あられをしっかり載せるのだった。何よりもそれを作る時、とても楽しそうだった。自分がお腹を痛めて産んだ二人の娘だ。やはり彼女も昔ながらの習わしを大切にするのだった。女の子の健やかな成長を祈るもの、それしか知らないが、多分深い謂れはあるのだろう。

今年の三月三日はそれと気づかぬ間に過ぎていた。お雛様が無かったのだ。あれ、というと、だって下の娘ももう両家顔合わせも済んだでしょ。と言うのだった。確かに、上の娘は数年前に結婚し、下の娘も秒読みだった。

女の子の健やかな成長と健康は、結婚したら祈らなくてもいいのだろうか。成長はともあれ健康は長きテーマだが。しかし母と同様に妻も又お役目は結婚までと考えているようだった。それが一般的なのだろうか。

今年はあの雅な顔立ちに会えなかった。しかし母が入った高齢者リハビリ施設の玄関にお雛様があった。妻のものよりはさらに古そうだった。入居している方はみなご高齢だがやはり健康を祈りたい、そんな施設の思いなのだろう。…あの小さな人々に、居なくなってほしくないな、と急に思った。何故だかわからない。これまでしっかり毎年役目を果たしてくれたのだ。決して口にはせず思わないことにしてはいるが、仮に子孫が続く可能性もあるならば再び健やかな成長と健康を祈らなくてはいけないだろうし。

「ねぇ、あのお雛様、綺麗なお顔だよね。捨てないほうがいいよ」 「え、あぁ、ありがとう」

妻は唐突な一言に驚いたようだったが、言葉通りに受け取った様だった。

飾られることなくひな祭りは終わってしまった。雛人形の入った箱は押入れの中に入れられている。いつか再び蓋が開く日が来るまで、防虫剤でも入れておこうか、と考えている。

 

母が入った施設に飾られていた。これも又古風な雛人形だったが健やかさを願う気持ちは変わるまい