日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

梅まつり

家内と共に小さな旅行に行きたいな、という思いが大きかった。自分は山歩きや自転車旅などで、これまで何十年も家内を置いたまま好きなところへ気ままに出かけてきた。何時しか家内の置いてけぼりは日常風景となり、それに子供達も慣れてしまった。平日は仕事で、休日は趣味で、家に居ない人。そんな位置づけになっていた。仕事を辞めて病からも戻り自由時間が増えたからだろうか、相変わらず空いた時間には自分は自らの予定を目いっぱい嵌め込んでいた。行きたい山や自転車旅の計画が多すぎて、またやりたいことも溢れていた。

ここまで来ると流石に妻に申し訳ないと思うようになった。自分が居らず仕事のないときの妻の日常は気分が乗っていれば編み物などもやるが多くはスマホのゲームやテレビのようだった。これでは旦那失格だ、と思うのだった。

日帰りのバス旅行などを始めたのは自分がまだ会社員の頃だった。車中で好きなだけ缶ビールも飲める。なかなか楽しかった。しかし自分は日帰りバスツアーが行きそうな場所の多くを山行やサイクリングで知っていた。季節の花を追いかけようという気持ちになったのは手詰まり感もあったが、花ならば目新しい気分になれると思ったのだ。 

梅まつりの街もまた自分にはなじみ深かった。数年前もそしてつい数か月前にも山登りで訪れた街だった。しかしそれを妻に言っても仕方なかった。昼食は地魚を出してくれる店に行く。少し予算オーバーだったが、さすがに海の街は魚が美味く妻は大喜びだった。バスに揺られて着いた梅園は大きな谷に在り南面の山肌が一面梅林だった。山すそに紅梅白梅が満開のその様はまさに春の到来を感じさせるものだった。わずか1時間ばかりだろうか、花を見ながら山肌につけられたルートを辿った。山の斜面に慣れぬ妻は実に危なげな足取りで歩くのだった。ただのぬかるみも彼女には不得手な斜面の様だった。手を取り危険な個所を通り過ぎた。

子供達を交えずに、こんな風に住んでいる町から鉄道に乗り少し離れて大した目的もなく遠出したのは久しぶりだと思った。もう娘たちにはそれぞれの家庭があり「我が家」というユニットの構成員は二人だけだった。

結婚する前やしたての頃はこうして二人の外出が何よりも楽しかった。大した遠出でもないのに喜んでいる家内を見て、来て良かったと思うのだ。簡単な事だがさぼっていた。こんな近場でお茶を濁してしまった。

「庭に梅の樹を植えたいな。大きな実のなる南高梅が良い」。はいはい、そうしよう。そんな場所がどこにあるのだろう。しかし家内の言うことをかなえる事が今の自分には大切に思えるのだった。

気楽なもので、帰りの電車では妻は寝てしまった。次は何処へ行こうかと考えていると、こちらもまた寝てしまったようだ。これではまた当分遠出もないだろう。無理せずに過ごすだけだ。梅まつりの一日は無事に終わったようだ。

紅梅白梅、多くの梅が咲き良い香りだった。菜の花と河津桜も又自分を主張していたのだった。家内との小さな旅。こんなお茶の濁し方でも喜んでくれるのはありがたい。