日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

抜け駆けはゆるさない

退職金の一部に旅行券がついていた。なんと気前の良い制度、そう思っていたが、旅行券の額面も又課税対象だった。何のことはない、単に退職金の一部が現金等価物にて支給されただけの話だった。

某旅行代理店の発行するこの旅行券、JRのチケットに使えると思っていたが、同社の旅行商品にのみ有効という話を聞いてがっかりした。自分の好きな「ふらり鉄道旅」には使えない。退職した年の春からコロナが始まり旅行ムードは消えていた。また翌年にすぐに病に罹患し旅行は遠いものとなった。

決して沈静化したわけでもないコロナだが第五類に移行するという話も出る中、使わなければただの紙くずにすぎないこの旅行券を何とか使わなくては、と思っている。観光地にとっても客が増えるのは嬉しいだろう。

パンフレットを貰いに都会の駅の地下街にあるくだんの旅行代理店に行った。

旅は好きでも、旅行にはあまり興味が無い。しかし家内は違う。これまで自分と言えば国内の旅ではテント泊、民宿、公営の宿、そんな世界を家族に強いていた。しかし細君は静かな旅館、ヒノキ造りの温泉、豪華な料理、そんな世界が好きなことは知っていた。家族を差し置いて山登りやサイクリングと称してホイホイ好き勝手に出歩いていた自分としては、遅いかもしれぬがさすがに家内に対して申し訳ないと思うもの。パンフレットは自分ではなく家内のためのものだった。「小さな車をキャンピング仕様に改造し、家内と犬とであてもない旅をしたい」、そんな事はとても今は言えない。まずはこんな旅行からだろうか。

欧州駐在時に頻繁に近隣国に旅行し、又北米出張も多かった。もう海外旅行には興味が無かった。しかも我が家には犬がいる。彼と行動をともにすることが大事だった。

「犬連れのパック旅行」というものはやはり無かった。犬連れが可能という宿もまた少なかった。日本だから仕方が無い。個人旅行の身軽さを旅行代理店の商品に求めるのは無理な話。手軽な一泊程度で、ワンコは娘の家かペットホテルにでも預けて、そんな考えが浮かんだ。

持ち帰ったパンフレット。家内はさっそく広げた。「あぁ、犬連れに厳しいね」とため息をついた。「預けてみるか、ペットホテル。娘の家は迷惑かけるだろうしな」

「まさか、俺を置いていくのではないか? 抜け駆けは許さないぜ」。そう言って彼は床に置いてあったパンフレットを「差し押さえ」たのだった。前足でしっかり踏み押さえ、後ろ足を伸ばして体重を預けていた。思わず二人して笑ってしまった。

犬は五感が鋭い。彼を家に置いて外出でも、と準備をすると駆け寄ってきて足に絡んでくるのだから、彼抜きの泊り旅などありえない話だった。

差し押さえられていたパンフレットはまとめて棚に入れておいた。たいした金額ではないが旅行券を使うあてもない。チケット屋に持ち込んでも叩かれるだけだろう。

くだんの旅行券は社員の評判も悪く近く廃止され、現金支給になるという。退職を数年粘るべきだっただろうか。いや、早く会社を辞めたおかげで、悪しきも良しも色々な体験を味わっている。病への罹患はありがたくないが、反面その後に小さく再始動後した日々は満たされている。色々な事を見つめる機会、自然の美しさ・大地の恵み、知らなかった世界での仕事、平坦な日々の中にも宿る小さな歓び、増える知り合いの輪、抜け駆けを許さない彼と家内とのゆっくりとした生活、更にじっくりと向き合えるようになった趣味…、まだ会社生活を続けていたらいずれにも縁がなかった事だろう。

有効期限のないチケットはあまり先のことは考えずに、肥しにしておこう。チケットの額面を超える毎日なのだから。

抜け駆けなきよう資料は差し押さえた。良からぬ考えはダメだよ。