日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

旅をしませんか

ひどく厄介な気持ちだった。二つの想いが自分を満たす。見知らぬ地の風景に触れその空気を吸いたい。しかし一方では家の中でゆっくりと妻と時を過ごしたい。相反する思いは満ち潮と引き潮のような関係だった。波間に木の葉のボートでも浮かばせてみよう。奥に流され手前に戻される。そのうちに転覆して沈むだろう。

少し遠出しよう。知らない街へ行ってみよう。それが北なのか南なのかも分からない。気の向くままに行くのだ。薄暗くなったら町外れにでも車を停めて寝よう。翌朝が良い天気ならばあたりの山に登るかもしれない。自転車で走るかもしれない。雨に降られたら初めて見る土地を歩き耳にしたこともない方言を聞くだろう。坂道を登れば視界が広がり蕎麦の畑があるかもしれない。高原レタス畑かもしれない。いや、活気あふれる小さな漁港かもしれなかった。

数年前に造った自作の車中泊ベッドを引っ張り出してきた。助手席とリアシートを倒してセットしてみた。寝心地はよかった。エアマットとシュラフも入れた。旅に必要な荷物も登山ザックも入れた。自転車も分解して入れた。これで僕は自由になれる。ハンドルは風に吹かれる方向に向くに違いなかった。

夜だった。出発だ。車に乗るだけだ。何処へでも行けるのだった。「気を付けて、連絡頂戴ね」。何十年もそうであったように妻はそう言うに決まっていた。そう想像すると何故だろう、旅に出ようという気持ちは静かに抜けていった。何だろう、ひどく寂しそうな表情が見えたような気がしたのだった。

自分は旅で何を得るのだろう。旅とは物見遊山や買い物の旅行ではない。独りの時間を通じて自分を知ることだ。山旅でも自転車旅でも良い。独りで体を無心に動かす。山を歩きペダルを踏んでいる。単純に繰り返される足の動きは一つの風景に帰結する。自宅で妻が笑っている風景であり、供に歩んできた家族の風景だった。僕はそれに会うために旅をしている。しかし今日ばかりはそんな幾つもの光景はどれもが屏風の様に並び立ち、僕を通せんぼするのだった。

万里の長城のように長くもないが自分の気持ちの行き先に高い壁で立っているのだった。それを前にして僕の旅心は消えてしまう。若い頃はそれを無理矢理に押して飛び出していた。今それが出来ないのは何故だろう。

これが歳を取るということなのだろうか。知らない世界は怖い。山歩きもサイクリングも危険と隣り合わせだ。滑落、転倒、事故。未知への好奇心は危険と背中合わせ。それが怖いのかもしれなかった。それに代わる何かが大切だと知ったのだった。

結局何処にも行かなかった。後悔もなかった。旅とは物理的に体が動くこともあればちっぽけな脳みその深層まで掘り下げていく事もあるだろう。自分を振りかえることが出来るのなら旅だった。空想の旅と笑われるかもしれない。しかしそれも良いと思う。機が熟すれば出かけるだろうし、途中で尻尾を巻いて戻るかもしれない。・・何でも自由なのだった。しかし自由が不自由だったのだ。それが生きるという事なのだ、最近になって僕はそんな事を考えている。

「旅をしませんか?」 行くよ。どんな旅なのか、旅行なのか分からない。いつなのかも分からない。

愛車の助手席と後部座席を倒すとフルフラットになる。そこに全長90センチのカット合板二枚。絨毯生地を巻いた。エアマットとシュラフもある。これがベッドだった。これでいつでもどこでも果てしなく行けるはずだった。しかし結局ガレージに戻った。どうしたのか。物理的な旅がいつか遠くなっていく。深層心理への旅をするしかないのだろうか。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村