日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

慰霊

◇ 彼の一番のファイトは何でしょう?
● ベストバウトはビル・ロビンソンだと思いますよ。1975年です。
◇ ああ、人間風車ダブルアームスープレックスですね。なぜベストなんですか?
● 60分三本勝負、それぞれ一本取って三本目はタイムアップ。フルタイム。技の応酬、一進一退は見事でした。
◇ ボブ・バックランドも好敵手では?
● 彼は上手すぎましたね。アマレス出身だから。噛み合っていなかった。
◇ ストロング小林戦はどうですか。ブリッジの足が浮いたという伝説のジャーマンスープレックスです。僕はあれがベストバウトと思うのです・・。
● あれで頸椎を痛めたと思いますよ。勝ったけれど残念な試合でした。
◇ あの試合の映像を見ると確かに衝撃が分かりますね。カール・ゴッチ直伝の教科書のようなスープレックスでしたね。・・・やはりスタン・ハンセンでしょうか?
● 彼が来たときはアメフト上がりで馬力だけでした。が、リングで育てられて好敵手でしたね。あの腕でラリアットされたら失神しますよね。
◇ ハルク・ホーガンは?
● うまくあわせてくれましたね。もうピークは落ちていたから。最後の試合がノックアウトになったのも当然ですね。

それはあるお墓の前で交わされている会話だった。彼の墓が我が家のすぐ裏手にある曹洞宗大本山総持寺に祀られていることを知ったのはテレビのワイドショーだった。自分のようなリアルタイム世代ならわかるが十代や二十代の若者もお参りしている映像には驚いた。彼らにとっては「元気ですかぁ」のオジサンでしかない筈だった。しかし、彼の生きざまを知り、力を貰ったのです、と言われていた。さまざまな動画が残っているお陰かもしれない。

彼の墓がここ総持寺に在るのには、その地が彼にとって縁だからだろう。もちろん彼がこの地の中学校に通っていたことは知っている。自宅の前をその中学校のジャージを着た中学生がいつも歩いている。幼稚園の時に自分は毎日彼の母校の前を歩いて通園していた。彼はその中学を卒業はしていない。卒業前に一家でブラジルに移住したからだ。彼の地で一家は多くの辛酸を舐める。立派な体と負けん気の強さで、現地に来た力道山に見出され帰国する。アントニオ猪木だった。戦後復興の力になり街中を街頭テレビで沸かせたのが力道山ならば、白黒テレビからカラーテレビに移行する激動の昭和を元気づけたのはその弟子だったジャイアント馬場でありアントニオ猪木だった。父親は毎週金曜日夜8時にはテレビにくぎ付けで、猪木のファイトをこぶしを握ってみていた。それを見て育った自分は当然猪木信者になった。むき出しのファイトは力をくれた。馬場のプロレスは悠長だったが猪木のスタイルはスピーディで魅了された。猪木の生涯は色々書かれているが彼が自ら書いた著作は面白かった。

彼は実業家としては失敗し負債を抱えた。後年は政治家になり湾岸戦争前に拉致された日本人を救うため単身イラクに乗り込み開放したり、北朝鮮に飛んだり。政治家としての彼の評価は自分にはできないがスタンドプレーが似合った。そんな彼が世を去り一年だった。僕はようやく彼の墓に行くことが出来た。

総持寺の境内は広い。待合所で猪木の墓を訪ねた。毎日何人もの方が墓参りに来るという。手慣れた態で教えていただいた。彼の見事な上半身を模した銅像が立っていた。そこで手を合わせていると一人の男性がやってきた。歳は僕と変わるまい。メガネをかけた小柄な方だった。墓の前に立ちすくみ深くお辞儀をしていた。話しかけると宮崎からこのためだけに来たという。プロレスでゴングが鳴ると両レスラーはリングの真ん中で見合って、多くは手を合わせる。「手四つ」というやつだ。これで相手の力量や筋書きを読む。最初の神経戦と言えた。僕たちもファンとしてまずは手四つだった。それは軽い話のジャブだった。が直ぐに彼の知識の豊富さが分かり僕は技の受け手・聞き役に回った。

僕たちは墓碑銘に刻まれた名前にも注目した。多くの弟子たちやリング関係者の名前だった。他団体の選手の名もあった。プロレスは1980年代後半から流れが複雑になり多くの弟子は猪木の元を離れシュート・ファイトに移行した。あるものはライバル団体へ移籍した。しかし戻ってきた選手も多い。そんな歴史を経た門下生たちの名前が並んでいる。「猪木さんは愛弟子でも去る者は追わず、来るものは拒まずだったのですよ。」と彼は言う。猪木の門を叩くレスラーも多かったが、途中で離脱したり、戻ってきたりした。他団体の選手もいた。そんなすべてを彼は受け入れたということだった。

多様性が唄われる昨今だ。多くの価値観を受けれた彼はある意味時代の先駆者だったかもしれない。また失敗を恐れずに政界に入りスタンドプレーを繰り広げたがそのファイトは記憶に残るだろう。

プロレスは筋書きだらけのショーだと揶揄されるがそれの何が悪いのだろう。彼は確かに日本を元気にしてくれただろう。宮崎からの客人とともに再度深いお辞儀をして彼の墓を辞した。良い慰霊になった。

最近は多くの方が見えるという。同じ墓地には石原裕次郎の墓もある。ここで知り合ったプロレスファンはこう言った。太陽にほえろで金曜の夜の視聴率を競っていた二人が同じ墓地と言うのも面白いですね、と。

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