日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

セメント固め

昭和のお父さんの多くはプロレスを見ていただろう。当時は今のようなショーマンシップも危険な技もなくベビーフェイスがヒールを最後に倒すという筋書きに則っていた。しかしそうと知ってもわが父はいつも激しい集中力で見ていた。子供ながらに自分も見るようになり、ちょっとしたプロレスマニアになってしまった。

そのうちにショーマンシップと筋書きを排した流れが出てきた。シュートファイトなどど呼ばれて、いかにもそれはスピード感に溢れていた。そしていつの時代だろうか、格闘技ブームがやってきて大みそかに放映されるようにもなる。プロレス黄金期からシュートレスリングに移行する辺りによく耳にした。「彼らのリングはセメント試合だ」と。

セメント試合か・・・相手をセメントで固めてしまうほどの真剣勝負。セメントの原料は石灰石だ。そこに砂や砂利、水を加えるとコンクリート。屈強なものの代名詞だろう。そんな風に思うとセメント試合などとても格闘技ではなく、命を懸けた喧嘩に思える。映画などで見るヤクザの脅し文句すら聞こえる。「ワレ、言う事聞かんにゃコンクリート詰めじゃ」と。実際にそんな風になってしまった痛ましい事件も忘れる事は出来ない。道路や建築物に使われる以外にはセメントの出番はないだろう。逆にセメントで固めるものは犯罪の隠蔽や憎悪だろう。

朝もめげずに散歩する。日の高くならぬうちに歩いてひと汗もふた汗もかいてシャワーを浴びる。とても気持ち良い。山の斜面の階段を登ろうとした。いつもここは車で通るたびに気になっていた。丘を切り崩した住宅地がある。バス通りから十数段程度の階段でアプローチするのだがなんとその山肌が見事にコンクリートで固められているのだった。それはとても異様な光景だった。いつもはそこをバスや車で通り過ぎるだけだ。今日は歩いて通り過ぎた。

数年前にその宅地に在った古い家屋は壊されていた。住人が居なくなったのだろう。家の無いセメントで固まった台地に向けて階段のみが残っているのも不気味だし寂しさもあった。足を止めてよく見たら気づいた。コンクリートの割れ目から、幾重にも塗りたくった層の隙間から、野草が顔を出しているのだった。外に出たくて仕方なかったのだろう。コンクリートの分厚い層を破りたくて仕方なかったのだろう。辛うじて守りの甘い箇所を野草は本能で見つけ出し、顔を出したのに違いなかった。。

この住宅地の持ち主はどんな人だったのだろう。建物は古かったので造成されたのは昭和40年代ではないかと思う。その頃は自然破壊という概念は一切存在していなかった。しかし何故セメントで山肌を固めるという発想が浮かんだのか。春から夏にかけて伸び放題になる草藪に憎悪を抱いたのだろうとしか考えられなかった。確かに毎年奔放に伸びる彼らを敵に回すのは嫌な話だ。自分も刈り払い機を肩に苦労する。完膚なきまでにたたきのめしたくてそうしたのだろう。しかし何故それを友達にしようとは思わなかったのだろう。高度成長期ですべてが効率・前進の時代にはそんなゆとりもなかったのかもしれない。

何をしてもじわじわと自然に還っていくのだった。来月来年になればもっと緑が増えているに違いなかった。こんな状態の土地を買う人もいないだろう。人間が土地に求めるものは安全さと自然環境だから。きっといつか自然に崩壊し草木が茂り丘に戻る。それで良いのだろう、と思う。

可愛そうな土地に風が吹き夏草が揺れているのだった。思わず平家物語の一節が浮かぶ。「たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。」 もうセメントはこりごりだ。結局はどうあがいても自然の摂理には勝てないのだ。琵琶法師でなくともそれくらいはわかる。抗うのではなく共生だ。それがこれからのヒントなのだろう。

哀れ、セメントで固められた丘。しかしひょろひょろと緑が顔を出している。逆らっても無駄だよ、と言っているのだろう。

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