日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

空想の庭

もし自分の家に広い土地があったら、どんな庭にしたいのだろう?

林の中に棲んでみたいという思いが芽生えたのはやはりアウトドア誌のお陰だろう。そんな雑誌を楽しむようになったのは社会人になってすぐだった。しかし生活の拠点は会社と家のある首都圏に限られた。せいぜいオフロードバイクにキャンプ用具を満載し林道を走り山奥でテントを張り焚火をする程度だった。それしか都会生活者にはありえなかった。アウトドア趣味の究極は登山だろうか。直ぐにその世界に行きついた。

いつもアウトドア雑誌が手元にあった。色々な野遊びを提案してくれていた。その中にはログハウスの広告もある。すっきりとした雑木林の中に木の家が建っている。何となく、憧れた。登山を通じて自然林と植林、広葉樹林と針葉樹林を知った。雑木の自然林は生きているが杉やヒノキの針葉樹の植林は薄暗く不気味だった。

近所にも決して大きくない敷地だがそこにちょっとした雑木林を作られている方がいる。概ね低木でシンボルツリーと言えそうな木は無いがまとまりが良い。つい先日までは梅が咲いていたがこの数日の寒の戻りと氷雨でそれは散りかけている。みかんはまだいくつもぶら下がっている。桜まではあと一息。柿はまた来シーズンのお楽しみ。下草も野趣がある。スイセンは終わってしまった。この尖った空気が丸くなればフキノトウの季節。春過ぎのアヤメは清涼だ。そしてアジサイ。小さいながらも夢に満ちた一角だ。

この家の住人は良く笑う小柄なお母さんと気難しそうなお父さんの二人だ。お母さんはなかなか目ざとく、我が家の娘たちがそれぞれ家を出たらすぐに、居なくなったの?と聞いてきた。金柑の様な禿頭のお父さんは口が重たそうだが我が家の犬を見ると相好を崩して座り込むのだから見かけで人を判断する愚を知った。この家の玄関にはピアノ教室の看板がある。それもあってからモーツァルトのピアノ協奏曲が良く流れている。二十三番は特にお母さんの趣味だろうか。煌びやかに流れるピアノは誰だろう。古そうな録音だ。クララ・ハスキルかなと楽しく想像する。時折トランペットの練習が聞えるのだった。はて誰が吹いているのかは聞いたことは無い。

音楽が庭に良く似合っているのだった。きっと毎日が楽しいに違いない。垣間見る都会の住宅地の小さな雑木林は自分に力をくれる。

山登りを通じて好きになった樹がある。ブナだった。小さいものもあるが稜線近くで見かけるものはたいていは樹高20メートルは超えるだろう。新緑の時期は空気を緑色に染める。盛夏にはここちよい日陰を作る。秋にドングリを落として葉は赤く染まる。冬はすっかり落葉し寒々と尾羽打ち枯らした風情だがみすぼらしい訳でもない。四季折々に表情を変えてそのどれもが美しい。なによりもブナの樹肌が良い。地衣類がついたものか味のある紋様が魅力的だ。森の聖母と言われるのもわかる。ミズナラもコナラもブナ科の広葉落葉樹だが樹木としてのサイズがより小ぶりになる。勉強不足なのか場数が足りないのか、ミズナラやコナラでブナの持つ紋様を見たことが無い。じっと眺めて体を寄せてみたいと思うのはやはりブナだった。

庭にブナやミズナラ、コナラがあると楽しめるだろうな。やはりブナが一番だが。しかし秋から冬は寂しいぞ・・。少し視野を広げれば常緑木もあるではないか。ソヨゴ、シラカシ・・。無表情な樹木に思えるがいろいろ混ざると季節を通じて楽しめるのだろうな、そして下草としてその足元に咲き乱れるのは野草の花々。ああ何と素敵な事だろう。木陰にベンチがあってそこでモーツァルトを聴きながら本を読んだらさぞや楽しいだろう。

すべては頭の中の話。空想の庭。それでいいではないか。一瞬でも楽しくなれるのだから。どんどん空想を膨らます。すると何処かでそれがパンと割れて目の前が実際の林だったら、嬉しい。

四季折々に表情を変える。ブナは味わい深い。木肌の紋様も美しい。この木が生活の中に横に在れば幸せだが実際には根も広く張り樹高も高い。想像の中で楽しむのだろう。

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