日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

晩夏

木漏れ日なのに陽の光に力がなかった。しかしそれでも空が明るいのは何故だろう。ぼんやりと見上げて気がついた。

いくつかの広葉樹の葉が少し色づいているのだった。弱くなった光でも明るく色づいた葉の力を借りて辺りを明るくしているのだった。

もうそんな季節なのか。そういえば西向きに立っている職場に射す夕日も、いつしか午後六時には勢いを落としてしまい藍色の空に溶け込んでいる。夏至を過ぎ冬至にむけ確実に日が進んでいく。仕事の度に書く業務日誌の日付はどんどん重なっていく。当たり前の話だった。

広葉樹の下を歩いていると色々な事が頭に浮かび。そこは地元の県立公園で大きな池と谷があり緑に覆われている。子供たちが小さい頃は週末ごとに遊びに来ていた。彼らと戯れた時間はあっという間だったと思う。喜んで滑っていた長い滑り台も、勢いをつけすぎて吹っ飛んでしまったブランコも、あの頃のままだった。ひと気のない平日の朝、緩い陽の光を浴びて微動だにしない遊具を見ているとなぜか涙が出るのだった。

自分も妻も若かった。木の滑り台を何度も下っては手を取って駆け上った。子供の成長は嬉しいものだが去りし日には郷愁があった。一生懸命だった。誰のために懸命なのかなど考えもしなかった。子供と妻の笑顔が自分を幸せにしてくれただけだった。

子供達は社会人となり結婚しそれぞれの家庭を営んでいる。それは良い話にせよ何故ここまで寂しいのかわからなかった。病になった。再発の夢を時々見て悪い汗で目が覚める。親は介護で施設に入った。愛犬は老境に入ったのか病院通いも増えた。様々な前向きでないことを考えなくてはいけない。生きる事は容易でないと思う。気づけば流れるのは時間ばかりだった。

ベンチに仰向けになりコナラの樹を見上げた。幾つも節を作り曲がって伸びる。枝に着いた葉は早くも黄色い。その先に高く晴れた空があった。節くれだった幹は人生のようだと思った。真っすぐではない。時に右に時に左にと向きを変えて行く。右往左往している自分の生き方だった。木の果てには何があるのだろう。

僕も周囲もどんどん年を経るのになぜかコナラの樹は昔と変わらないのだった。樹の先にみつけた。白い雲だった。あれが自分のゴールなのか。風に流れるそれはひどく気儘で、気楽そうだった。またもや侘しくなってしまう。がこう思うことにした。「雲も悪くないな。流れるままだ。」と。

少しだけ寝たのだろう。ベンチから起き上がると軽い眩暈がした。晩夏の風のもつ優しい棘が僕の目を覚ましてくれた。

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