日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

前線の通過

子供のころから天気図が好きだった。日本地図の上に何本もの線が引かれている。密なところもあれば疎の箇所もある。この線は何か?特に気に入ったのは前線の表記だった。たいていは東西に延びた線に白い半丸と黒の三角が旗のように互い違いに配置されている。それは停滞したり動いたりする。あの前後で何が違うのだろう。風景が変わるのか?科学的好奇心の目覚めだったのかもしれない。台風の図は見ていて余り幸せになれなかった。子供の頃写真で見た鳴門の渦潮を思い出させるのだろう。あそこに入ったらどんどん渦の中。海坊主に足を捕まれ二度と出てこれない、そんな恐れがあった。天気図帳を買ってきてNHKラジオから流れる各地の気圧を書き取り線で結んだのは何時の事だったか。理科で習ったお手製の天気図だ。アモイという中国の都市名はそれで覚えた。登山のテントの中でそれを書いた時代もあった。

今でも天気予報番組は何気なく見る。気象予報士によってはわかりやすい説明をする方もいる。ただの天気マークだけを示す予報よりも天気図を見ながらこうだからああなるでしょう、という話のほうが腑に落ちる。

今朝のテレビでは関東地方は午後に前線が通過するという。午前中は二十五度以上の気温が夜間には十度台になるという話だった。興味を引いたのは「通過するという前線」だった。それは目で見る事は出来るのだろうか?

登山仲間達とのビデオ会議に向けて仕上げなくてはいけないパワーポイントの資料があり、朝から部屋にこもりっきりで苦吟していた。部屋は見晴らしがよく南向きだった。視界を遮るのは隣家の屋根だけだった。時折頭をあげる。午後になり雲が流れているのに気づいた。高い空に幾つもの雲が生まれては消えていくのだった。

何故だろうな。あれは単なる水蒸気の塊で気圧の差で生まれた風に乗るのだと思うより、何か意思をもって膨らんで何らかの理由で消えていく塊。例えば風神様がいて大きな袋から風を出してそれが渦巻いて雲になる、そう思うと楽しい。何でも方程式で証明する世界よりも想像に身を任せて楽しむ世界のほうが自分の性に合っている。実際僕はガラス窓の向こうに誰かいないだろうか、と空を見あげ雲の奥を探るのだ。

鳥が慌ただしく飛んでいくのだった。見たこともないような大きな蜂もぶんぶんと風に乗っている。あれに刺されたらたまらないと戸締りを確認した。動物はやはりどこかで天気の変化を感じ取るのだろう。彼らを見ていて何か来るな?と思った。間違えなく前線が近づいているのだろう。そこを一機の飛行機が東から西へ向け飛んで行った。羽田を離陸したばかりだろう。肉眼では小粒納豆程度の大きさだった。前線が本当に天気図のように白と黒の三角旗の連続であるならば飛行機はそんな目に見える垂れ幕の中をものともせずに突っ込んでいくのだった。クルーと乗客には何かが見えるのだろうか?店先ののれんのようにひょいと片手で払うのか。いや、きっと何もないのだろう。ただ見えない前線を突破するだけだろう。揺れの少しはあるのかもしれない。…確かに西から黒い雲がやってきて風が強くなった。いま、きっと通過した。それもつかの間、黒い雲は忍び足の上手い秋の夕闇に同化して、判別できなくなった。風だけだった。

前線となぜよぶのだろう。それは戦いなのだろうか。欧州東部や中東をめぐるニュースではここしばらく前線と言う単語が溢れている。それは暴力と不幸の連続面を意味している。風のように吹いて何処かへ飛んで行ってくれないだろうか。せめて毎日テレビで目にする天気図にはそんな名前は辞めて欲しいものだ。

「風神様の吹いた線」とでも呼んでもらえたら、なんとも天気図もより楽しくなる。閉塞感の漂う昨今は、せめて笑って過ごしたいものだと思う。

何でも数学の様に答えを出すより感情を膨らませ想像に身を任せたい。不幸な連続面はやがて楽しいものになるだろうから。

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