日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

旅の風景・カンで走る楽しさ

カーナビは便利で、単なる現在地を示すものから最短ルート表示、渋滞回避。そしてテレビを見て音楽を聴く機器として多機能化した。しかしそれもスマホに駆逐されつつある。カーナビにせよ、スマホにせよ、現在地は直ぐにわかるし目的地へのナビもストレスなく実施してくれる。地図を見て、はてここは何処か?目的地へはどう行こうか?と思案することも無くなった。

250㏄クラスのオフロードバイク旅に熱中していた若き日では、小さな地図、それはA5判サイズの昭文社の「ツーリングマップ」だったが、それを折り曲げて、バイクのタンクの上に載せるタンクバックと言われるツーリングバックの上面の透明ビニールの下に挟む。それがナビだった。14万分の1という粗いスケールだがそれでもキーポイントが抑えられるので充分だった。

頭の中には常に、北はどちらか?という体内コンパスがあった。今自分が腕につけている登山用のコンパス内蔵の腕時計などありもしなかった。すべては太陽を見て時間を考え、北はどちらかを判断して、頭の中にある地図を思い浮かべながら走るものだった。

体内コンパス、うろ覚えの地図。当然遠回りも多かった。しかし頭の中でカンを働かせ目的地へ無理やり到着するという楽しさがあった。また、旅が終了した後、ツーリングマップを広げ、ああ、自分はこう走ったのか。と納得するのも又楽しかった。地図は読んで楽しみ、反芻して楽しむものだった。

時間にせかされないサイクリングの旅ならば、便利なスマホの機能はオフにしたい。谷筋を一つ間違えばクリティカルなルートミスになる場合は別だが、フラットな市街地や田園の中を走る分には、頭の中のコンパスと頭に入れた地図、そして太陽の位置とそれが作る自分の影で、走ってみるのが良い。

旅の相棒・ランドナーに跨った過日の気ままなサイクリングでは、そんな昔ながらの感覚をフルに生かして走った。常に北は何処か、今は何時かを確認しながら、行く手の方向を決める。展望が利くときは良いが、住宅地などに入り込むと方向感覚は容易に失われた。

自分は神奈川県中部を流れる相模川下流域を目指していた。向かうべき方向は西だった。丹沢が常に正面に見えれば正しい。こう、と選んだ道は畑の中で行き止まりだった。引き返し住宅地と丘陵の境の旧い道を行けば北に向かった。このような場合、道路は地形に忠実なのだった。これではルートをミスると、抗うように小さな枝道を無理やり左手に折れて、再び丹沢が目の前に大きくなった。

そんな事の繰り返しで、なんとかめざす相模川に出た。帰宅してスマホで取得していたGPSでのルート図を見ると随分と苦戦していたことが分かった。それも楽しかった。

こんな素敵な楽しみを忘れてしまっていたのは何故だろう。カーナビなどの技術革新のせいにしてはいけない。結局、効率を求め、ミスを減らし、早く結果を出したい。回り道を許さず速やかに成果を求める、それは社会人という生活を通じて得た習慣なのだろうか。

しかし今は時間に余裕がある。旅は常に効率と正解重視だろうか?いや、非日常的な体験をすることによる自己の再発見が旅だ。それはトレッキングやサイクリングなど、自分で汗をかかないと手に入らない。誰かが決めたルートに乗って気楽に楽しむものは旅行ではあっても旅ではない。そう自分は思っている。勿論旅行は手軽で楽しい。それは素晴らしい世界だが旅とは別物だ。

その旅も、カンに頼って自分の進む先を選ぶという、先が見えない経験をすることが楽しい、そんな事を再認識するのだった。ルートを間違ったところで、たかが知れている。

午後遅くなり気圧の谷が通過したのか、風向きは変わり、強い西風になった。丹沢は大きく見えていたが、再前衛の大山すらが重い雲に隠れてしまった。さて、ここからは旅の折り返し。追い風を受けて東へ走るのだから少しは楽だろうか。ともかくも残った旅を安全に終えよう。この先は簡単な道路を選ぶので少しのカンで安全に「旅」を終えることが出来そうだった。

湘南らしく、吹く風に潮の香りが混じったのが、嬉しかった。

前線が通過した後相模川の土手に立った。前衛の大山は雲に隠れ、伸びたブッシュで川の水面は見えなかった。

旅にはやはり地図。2.5万分の1図は登山には向いているが移動距離の大きなサイクリング向きではなく、5万分の1図が向いているのだろうか。山では地形図は生命線。磁北線を書き入れコンパスを携帯する。一方の14万分の1ツーリングマップは描写は荒いがあとはカンで走ったものだった。どちらもスマホの進化で遠ざかってしまった。しかし、同時に失われたものもあるだろう。カンを利かせる楽しさを忘れたくない。