日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

旅の風景・廃線跡にて

自転車を降りて手で押しながら歩いている。足元の錆びついたレールが目に留まる。

細いレールだ。間違えなくそれは一日数本しか走らない支線のレールだったろうし、それが使われなくなり半世紀は近いのではないだろうか。

枕木は割れ、レールは赤く錆びている。レールのジョイントとレールを止めるボルトとナットは赤く錆びつき、レールを固定する犬釘も又年季が入ったものだった。レールを敷き詰めていたはずのバラストも多くが失われ、そこに朽ちた落ち葉が寒そうだ。

廃線跡を巡るには、徒歩か自転車でのゆっくりポタリングが良いだろう。その速度なら発見があり、往時の空気感を味わえる。レールが残っている箇所は少なく多くは緑道として、また、路肩は市民農園として辛うじてその軌道跡が認められるにすぎないのだ。高さ20mはあるだろうか大きなクスノキが軌道跡に立っていた。鉄道が走っている頃は、車輛通過の邪魔になるほどこんなに大きくはなかったのだろう。

随所に時の流れを感じさせる。廃線の終着駅は大きな川のそばだった。往時をしのばせる遺構もなく、そこはかつて駅があったことを示す石碑があり周りは公園になっていた。

想像通りここは相模川の砂利を運ぶための線路だった。しかし石碑によると、戦中は軍需工場の貨物線として存在したとある。戦後しばらく旅客運営を始めたとはネットでの情報。子供のころから時刻表の冒頭の国鉄路線図を見るのが好きだった。時刻表が自分の地理の教科書だった。首都圏の拡大図を見て、とある駅から盲腸の様に飛び出ていてずっと気になっていたのが今日歩いている廃線だった。

交通安全の神様として、神奈川県ではちょっとは知られる寒川神社相模川下流域東側にある寒川は、茅ヶ崎市にも海老名市にも藤沢市にも合併されることなく未だに「高座郡寒川町」と名乗っている。街を通る相模線は茅ヶ崎から橋本までを南北に結ぶ単線路線だ。自分が学生の頃は数両編成の朱色のディーゼルカーが走っていた。

そんな寒川の駅から相模川の土手迄のわずか数キロに相模線の支線があった。西寒川支線と呼ばれていたようだった。1984年に廃止され、寒川駅西寒川駅を結んでいた小さな盲腸線は地図から姿を消した。

廃線後40年の月日を感じさせるかのように、錆びたレールは荒れていた。しかしレールを剥がすことなく一部でも残してくれているのは嬉しい事だ。そんな1067㎜の軌道の間を三人の親子連れが楽しそうに歩いているのだった。小さな女の子は暖かそうなダウンを着ていた。

いつか彼女も思い出すだろう、かつてこの地を両親の手に引かれ歩いたころを。その時にはこの朽ちたレールはどうなっているのだろう。自分が成人した年に廃線となったこの路線。その時から今まではあっという間だった。長いようで短い時の流れだった。かつて自分達にあのように手を引かれて歩いた我が娘たちももう今は手元を離れた。あの女の子がそんな懐古をする時は、若い夫婦は今の自分の年齢頃だろう。自分達や役割を終えたレールはその頃にはどうなっているのか。

時の前に人は無力だ。これからもあっという間に過ぎていく小さな一日を積み重ねていくのだろう。錆びたレールが残った廃線跡はそんな時の流れをじっと見つめていく。

かつて自分達にもあった風景。遠い昔なのかもしれないしつい最近だったかもしれない。錆びたレールは何も言わずに、時の変化を受け入れている。

赤茶けたレール。枕木は朽ち果てバラストも無くなっていた。

自転車の速度ならでは感じられる世界がある。それはスローな空気感だ。