随分とお世話になったものだ。これに跨り走った距離はどれほどか。
ライン川沿いを下り国境を越えてドイツからオランダに出たのもこのサドルだった。シャンパーニュやブルゴーニュそして古城が美しいロアール川沿いを走ったのもこのサドルだった。日本に帰国してからも、故郷の瀬戸内海を走り、関東平野を縦横に走りつないで来たのもこのサドルだった。
革サドルはランドナーを成立させる条件の一つだろう。一見いかにも固そうな革のサドルだが、ずっと使っているとしっかり自分のお尻のカタチにフィットする様になる。自分のお尻に馴染んだ革サドルは手放せない、だから旅する自転車のためのサドルだ。よくそう言われる。
自分の皮サドルはどうだろう。ブルックスのB17スタンダード。すっかり傷だらけになったが彼は何も言わずに旅のお供をしてくれる。時々保革クリーム、それも手抜きして登山靴用のものだが、それを塗りこんでやると、あら不思議。昨日付いた傷は見えなくなり、心なしかサドルが輝くではないか。登山靴の手入れのノウハウからサドルにミンクオイルを塗りこむのは控えている。栄養補給のミンクオイルは皮を柔らかくしすぎて少なくとも登山靴には滅多に塗らぬように、とは山屋の常識だ。同じ分厚い革なのだから、愛車のサドルも同様に扱っている。
そんな保革クリームでもサドルは嬉しそうだ。時としてそれは日光を反射するほどワクワク感を伝えてくれる。
彼が喜ぶのは、実際の旅に出る事。そこで傷が一つ二つ増えようとも、彼は文句を言わずにむしろ楽しそうだ。
♪ ありがとう。今日もいい旅だったね。
そんな適当な唄を革サドルが唄っているのが聞こえてくる。けなげなサドル、次回は少しだけミンクオイルを塗ってやるか。随分と傷だらけになってしまった彼とも、もう20年の付き合いだ。また旅に出ような、これからもよろしく頼むよ、とつるつるの表面を軽く撫でた。