驟雨だった。陽炎が漂うような空にもくもくと雲が盛り上がり急に降り出した。
自転車の小さな旅で街道沿いを走っていた自分は本能的にひさしを探した。上下とも速乾ウェアのいで立ちで土砂降りでも晴れればすぐに乾くだろうが、やはり濡れたくはない。雨宿りが必要だった。車道からビルの庇に飛び込んだ。降り落ちた雨粒がアスファルトに跳ね返って濡れた路面は粒立っていた。しばらくはここで退避だ。
直ぐに避難民がやってきた。赤色のスーパーカブだった。ヤレヤレとヘルメットを外した彼と目線があった。
すごい雨ですね
ここ毎日、いつもこうですよ。まだ配達残っているのにな。
郵便配達の男性は浅黒く日焼けしていた。先を急ぐふうだが煙を立てるかのような雨がそれを妨げていた。ここ十年で配達事情が大きく変わったのはネット通販が広まったからで郵便物は減っても小さな配達物は増えたという。一日何度もある再配達への対応も彼はため息交じりに話された。受け持ちエリアには毎日千件あたりの配達があるという。そして再配達は百件以上あるらしい。明らかに空き家だろうと思われる家にも郵便を入れなくてはいけない。
なかなか大変ですね、と言うと、まあバイクですから楽ですよ、と笑って言われた。無駄話のうちに通り雨は止んだ。赤いバイクはエンジンを吹かして出ていった。路面がイワシ色に光り虹の一つでも出そうだった。雨宿りは終わりだ。僕もランドナーのペダルを踏んだ。
ふと「雨宿り」と言う歌を思い出した。中学生のひとときフォーク・ソングを聞いていた。さだまさしの歌だった。たまたま何処かで雨宿りした女性が知らぬ男性に出会う。虫歯がキラリと光ったその笑顔に彼女は何故か惹かれ、いつか偶然に再会したときに男性からプロポーズを受ける。そんな話を少しコミカルに描いた歌だった。当時はまだ中学生だった。おとぎ話かとも思えたが恋愛ってこうして芽生えて成就するものなのか、と淡く憧れた。実際にはそんな簡単なものでもなかったかもしれない。しかしいつしか自分も結婚していた。雨やどりではなかったが何かあったのだろう。
幸せで夢のある歌詞に憧れていた自分はどこに行ったのだろう。山あり谷ありの日常に埋もれて憧れることも忘れてしまった。しかし、虹を見ることが出来るのなら嬉しいな、そんなことは今でも思う。
雨も上がった。この道を西に向かえば川沿いの段丘をを下っていく。そこには電化されてしまったが今でも単線ののどかな鉄道が走っている。その先は富士山を望む湖から流れ出て相模湾に注ぐ大きな川がある。学生時代は毎日それを渡り学校に通った。伸びやかとした広い光景だ。
そこに出れば虹が見られるだろう、そう思ってペダルを踏んだ。展望が広がった。川は青々と夏空の下に流れていた。しかし虹はなかった。早くも次の雲が空を埋めていた。また一雨来るかもしれない。このあたりで雨宿りをする場所を探すのも難しいだろう。
感受性は当時の物から変わっても、虹を見たい・見られるだろう、と思う気持ちが心に残っていることが嬉しかった。次の雨は濡れて過ごそう。激しい雨でもいい。それを抜けるときっと大きな虹が現れるはずだ。