多くの駅の立ち食いソバ店が自分の前を幸せな記憶と共に通り過ぎていった。
忙しさ、せわしさ、その中での最短時間での美味しさの提供。それを可能とするワザ・所作。何かにせかされるように立ったまま麺と汁をすする楽しさ。すべてに発見もあれば喜びもあり、果ては旅情あり。とばかり麺探しの旅をしている。
そう書くと凄い旅に出ているようだが、単に行き当たったホームに立ち食いそば屋があれば食べる、というだけのことだ。
品川駅にある常盤軒。自分の駅立ち食いソバ歴の中では間違えなくトップ3の訪問歴だろう。品川駅構内には駅ソバ店は何軒かあるが自分の馴染みは山手線ホーム上の店。京浜東北線を品川駅で乗り換えて通勤することが多かった。午後からの出社時や、残業で遅くなったときなどは、ここが胃袋の関所だった。
小腹がここで減るのだ。たまらずにガラリと引き戸を開けたものだ。
会社を辞めてからは都心に出ることもなくなった。むしろ人混みに辟易し都会に出たいとも思わない。品川駅で降りて山手線に乗り換えることもなくなった。
所要で渋谷に向かった。久々に品川で乗り換えると知り、所要以外の目的ができた。懐かしの味との再会だ。
いつものかき揚げそば。ここに来るとかき揚げ丼と思しき品川丼がいつも気になるが定番の前に負けてしまう。
土曜の昼下がり、店は少しは暇な時間帯でオヤジさん一人でのオペレーションだった。食券を渡すとさっと湯がいて黒い汁を掛けて完成だ。ネギは多めだな。オヤジさん、やることに無駄がなくてさすがプロだね、そう唸ってしまう。
かなり疲れた冷水機も、くるくる回すゴマ擦りボトルも、大ぶりの七味の缶も、全てが当時と変わらなかった。
久々のかき揚げそばは美味しかった。汁も甘じょっぱく嬉しい。駅そばと侮ることなく蕎麦も歯ごたえあり、かき揚げは最後まで汁に溶けることなく揚げ物の実体を強く主張した。しかも噛みごたえが時折ある。ほじり出してそれがイカゲソではないか、と想像した。
オヤジさんに話しかけてみる。あいかわらず美味しいですね。数年前まで乗り換えでここよく食べましたよ、ごちそうさまと。
毎度、いつもありがとう、とオヤジさんは少し嬉しそうだった。
早く帰宅しよう、とスーツを着てネクタイ締めて走っていたのだ。出張の成田エクスプレスに乗るためにトランクを転がしながら電車を降りたのもこの駅だった。そのどれもが日常の風景で、その背景にはいつもこの立ち食いソバ屋があった。
青春の味はほろ苦いというが、初老の味はなんだろう。脂ののった会社員時代はそんな馬鹿馬鹿しい事すら考えなかった。
ご馳走様と店を出ると、お約束通り唇はかき揚げの油でテカリ、口はネギの香りで満たされた。ははあ、これが初老の味か…。
いや、違うな。何時までも美味しいものをそう感じ、関わった人に素直に感謝出来る事、そのような気持ちのあり方が初老の味ではないか。そんな事を考えた。