日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

随想の風景・山の書との再会

徒歩・テレマークスキー・自転車など、人力で旅をすることを趣味として随分と長く時間が経った。数日間も旅をするような大げさなものではない。わずか一日でも住み慣れた環境を離れ、見知らぬ風景に出会い、知らない風に吹かれる。独りになり自己との対話をすることが出来れば、それはやはり自分が憧れる旅だろう。

長く旅をしていると、結果として多くの書物や地図に触れる。自分を旅にいざなってくれた書籍は数限りない。随想もあればガイドブックもある。ハウツー本もある。やはり好みは随想で、手の空いた時間などでぱらりとページを開いて2000字程度の稿に触れる。見知らぬ山や峠道、田園地帯への憧れは、これらの書で深めたものだった。

昭和初期から、銀行員でありながら山を歩かれ随想を残されている川崎精雄(かわさきまさお)さんという方がいらっしゃる。今でも手に入る書籍として「山を見る日」と「雪山・藪山」(いずれも中公文庫)の2冊を残されている。会津や奥利根、奥秩父や道志あたりの山々を歩いた随想は戦前の山里の習俗などをも味わい深く、素朴な山旅を感じさせるものだ。

「冬の雲」という好短編がある。(出典:山を見る日) ある晴れた冬の日に川崎さんが相模の国は高座から丹沢を眺めていると、ステッキを手にした一人の上品な老紳士に話しかけられる。「あの山は何ですか?」と問われ、その指された山が一番手前に大きく立つ「大山」ではなく、その背後にある山稜・「丹沢山」であったことに魅かれた、と書かれている。その老紳士は吉田博さんという山や旅の絵を描く画伯で、川崎さんは吉田さんの剣岳を描いた労作を目にしていたので失礼にはならずに済んだこと。そして二人で小田急線に乗り、多摩の丘陵歩きを吉田画伯から打診された川崎さんは所用のために後悔を残してお断りしたこと、それが最初で最後の吉田画伯との出会いであった事。そんな事が淡々と、そして生き生きと書かれているのだった。

病で床に臥せ、点滴だけの毎日を送りながら、自分は家内にそんな川崎さんの2冊を家から持ってくるように依頼し、ベッドの上で広げて読んでいた。いつか山へ行きたい、という想いがわき、病に勝とうと強く思ったのだった。

晩秋、というより季節的には初冬の薄曇りの日に、相模の国は高座郡へ旅をした。高座郡寒川町に在った旧国鉄廃線跡地を探しての自転車の旅だった。廃線の終着駅跡から相模川の土手はすぐそこだった。土手からは緑の茂る川岸の奥に高圧鉄塔の立つ厚木の街並みが、そして、無遠慮なまでに大きな大山と、その背後に長く連なる丹沢の主脈に目が奪われた。

川崎さんが吉田画伯と見た風景はこれだったのか…。成程合点がついた。確かに、山を見るのが好きでない方には大山以外の風景は目に映らないだろう、と。

短編「冬の雲」は1972年に「アルプ」に回顧という視点で掲載されている。画伯との邂逅は1936年だったと書かれている。

85年近く前の相模の国は高座からの丹沢の眺めと、21世紀の眺めは違うのだろうか。違うとしたら山麓の風景で、当時は無粋な高圧鉄塔などもなかっただろう。山の姿は長き時の経過を経ても変わらないに違いない。自分も歩いた山々は稜線のそこかしこに追憶がある。長い友である彼らの、尾根や谷のひとつでも見逃すまいと風景をかみしめるように見て目を閉じた。

心の中の印画紙にゆっくりと、山の書に書かれた二人の紳士の出会い、それに悠久の山の姿が焼き付かれた。

(了)

帰宅して改めて「冬の雲」を読み返すと、川崎さんと吉田画伯の邂逅の地は相模川の土手ではなく、今の地理で言うならば海老名市の国分であるとわかった。学生時代に座間に住んでいた自分にとっては国分の高台からの丹沢の風景も見慣れたものだった。海老名市国分であろうと、高座郡相模川土手であろうと、大きな問題ではないだろう。丹沢の風景を前にして、自分の中でゆっくりと随想の風景が浮かんだのだから。冬ばれの日に、今度は海老名市国分へ歩いてみようか。それも悪くないだろう。

吉田画伯の展覧会は入院中の出来事で見ることが叶わなかった。川崎さんの掌編「冬の雲」で書かれている剣岳の絵は、これだろう。いつか見てみたいと思う。(入院中に作業療法士さんから頂いた展覧会のパンフレットをスキャンしたもの)