日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

広場の孤独

そこは谷戸の地形を利用していた大きな公園だった。谷戸なので沢筋が丘陵地迄深く浸食している。そこには当然水の流れがある。そこに三つの池を作った県立公園だった。幼稚園の頃よくそこで遊んだ。当時住んでいた社宅から徒歩十五分だった。家族でピクニックでもしたのだろう、いや、遠足だったかもしれない。カヤトの斜面に腰掛けておにぎりを食べていたら何の拍子か手から落としてしまった。それは斜面を転がり僕は泣いた。童話・おむすびころりんのようにネズミの穴に落ちたわけではないが、草まみれになってしまったのだ。

時は過ぎ自分の子供たちが小さな頃も又ここは格好の遊び場だった。三つの池のほとりには遊歩道がある。少し谷を詰めて尾根筋に上がると遊具のある広場もある。池のほとりで一人、椅子に座っている方が居た。絵を描いていらした。鉛筆で下書きし帰宅後に水彩をあとで落とすという。自分と同じ画法だが彼は淡彩画ではないという。下地線を生かして少しだけ彩色する、と言われた。それもあってか彼が使っている鉛筆は自分の様な2BではなくHだった。固いタッチがお好きなようだった。

広場に上がる。そこはわずかに葉が色づいていた。500㎜程度のレンズだろうか望遠を片手に思案顔の男性が居た。何度もカメラを構えては考え直していた。二人の男性はともに独りだった。そして心に浮かぶものを筆で表しカメラに写し込もうとしていた。心象風景を形に残すことは素晴らしいと思う。絵心も写真の腕もない自分に出来る事はせいぜいそれを記憶に残し唸った上で文字に落とす事だ。がいずれも難しい。ただ、誰もが向き合っていた。自然と言うフィルタを通して、彼らが自分自身を見つめていることは容易にわかった。なぜなら自分がそうだから。写真も絵も文章も、何かを題材としてきっかけとし自分の心の扉を開きその中へ旅をすること、そう思っている。

その意味で彼らも自分も、広い公園で一人ぼっちだった。一緒に散歩していた妻を差し置いて僕は考えてしまう。人は何故そんな事を考えるのか?いちいち自分のやることに何故意義を見つけようとするのかと。

「広場の孤独」、そんな小説のタイトルが頭に浮かんだ。1950年代の堀田善衛の手による芥川賞受賞作だった。それを読んだのは中学生か高校生だったろう。肝心の本の中身は忘れてしまったが、その題名の出来具合にひどく惹かれた事を覚えている。

孤独感を感じるのはどんな時だろう。広場で一人。それは寂しいだろう。では雑踏の中で一人は?では群れの中に居たら? 生まれるのも独りなら、死ぬのも独りだ。結局人間とはいつも通奏低音のように心の奥に横たわる独りぼっちの気持ちを友達にして過ごしているのではないか、と思ったのだった。

今日の絵かきさん、カメラマン。そして自分。だれもが心に孤独を持っているのだろう。それを表現したくて苦しむのだろう。表現を進歩と捉えるならばその意味で孤独とは人を高みに導いてくれるものだ、と思うようになった。それは若い頃には思いもしなかった感情だった。

日の当たらぬ谷あいの遊歩道で彼は池のほとりの街路樹を心に刻み絵に記していた。一人の時間と向き合っていらした。

池に浮かぶ彼らには寂しさがあるのだろうか

秋の最中、暖かい日々が続く。紅葉はまだ当分来ないのだろう。彼らには寂しさはないのだろう、が彼らの色と姿が孤独感をいざなってくる。

(写真:OLYMPUS OM-D (EM10)TAMRON14-150㎜F3.5-5.6)

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