日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

「旅がらす」の想い

何かに熱中していて、ふと我に返る。「あれ、なぜ自分は今こんなことをやっているのだろう?」と自問自答が湧いてくる。そんなことが無いだろうか?

好きなことに取り組んでいるはずでもその思いは時々不意に顔を出す。取り組んでいることが肉体的に厳しければ、その疑問の度合いは深くなる。

何事にも没頭できない性質なのだろうか…。

秋の風を切り静かな田園の中を自転車で走る。傾きかけた西日に金の稲穂は風に揺れ、小さなさざめきを作る。しかしその音は自分が走る風の音に交じり判然としない。秋の風の音を聴こうとペダルを止めて、ふと西の空を見る。すると曇りがちの空の隙間から陽の光が線となり地上を照らしている。一本ではない。幾条も。雲の隙間と言う隙間からそれらは刺す。金の稲穂はさらに輝く。…サイクリングでの一光景だった。

薄い霧が流れる稜線。薄暗い植林帯はとうに超えてブナやミズナラの心地よい稜線だった。緩い上り下りは稜線歩きには欠かせないアクセントだ。露岩があり立ってみるが、今日は遠望は利かない。時折霧は濃くなり目の前の大きなブナの木のその輪郭を溶かしてしまう。霧を手に取ってみようと手のひらを動かすが捕まえる事も出来ない。…独り歩きでの山歩きの一光景だった。

この気持ちを一言でいうなら寂寥感だろうか。

こんなときに思うのだ。「今なんで自分は「旅がらす」の様にここでこんなことをしているのだろうか」と。そして次に頭に浮かぶシーンは決まっている。妻や家族の顔だ。

空気のような存在と言われ、実際にその通りだろう、家族とは。娘たちは巣立ち、居を別とした。妻とも家でさほど良好なコミュニケーションを取っているわけでもない。しかし、そんな彼らの顔が頭に浮かぶのは何故だろう。

ただ一つわかる事は、そう思ったら次に「早く会いたいな。会って、ふらりと家を出て好きなことをしている自分の事を詫びたい。いつもこんな自分と過ごしてくれて全くありがたい。感謝したいな」とくる事だ。

「早く、そして安全に帰宅しよう。」 …ケイデンスが高まる一方ハンドルさばきは慎重になる。あるいは足元の岩につまずかないよう下山のステップは小刻みになり安全を重視したものになる。そして確実に自分を家まで運んでくれるであろう車や鉄道に乗ると、ほっとする。もう大丈夫だと。

サイクリングも登山も「小さな旅」だ。自分の言う旅は「一人旅」。たとえ友人と同行しても、行程中は独りの行動だ。独りは寂しさを体感するにはもってこいだろう。しかし自分はその寂寥感に惹かれている。重い輪行袋を解いてランドナーを組み上げて走り出すのも、いつまでも飽き足らずに重いザックを背負い汗をかくのも、どちらも同じ感覚を楽しむためにやっているのだろう、と気づく。

寂寥感という単語は一見不安な気持ちを与えるが、それは「幸せさを映し出す鏡」ではないか、と思っている。幸せと言うとおおげさだが、人間は社会生活をする以上群をなす。そんな群に属することは安定感もあるし「幸せ」だろう。しかし群はその秩序維持が大切となる。義務やしがらみという奴だろうか。時々窮屈になり、自分を解放したくなる。そして自分は輪行袋を担いだ・登山ザックを背負った「旅がらす」だ。

結局のところ寂寥感に包まれてようやく「自分と社会との繋がり」を再認識し、繋がっている事の幸福感を感じたい。だから一人で旅に出るのではないか、そう感じている。幸せを体感するにはそこまで複雑なステップが必要なのだろうか。全く面倒くさいな、と思いながらも、次回の「旅がらす」の計画が頭の中に満ち始める。いつしか愛車のチェーンには潤滑油がスプレーされている。登山ザックには次回の山行道具が詰め込まれていく。

「それでは行ってくるよ」。まだ寝ている妻と犬に小さく声をかけて、家を出ていく。

傾きかけた日が黄金の田に愛車と共に走る己の姿を映し出す。ああ、独りだ。それが楽しいと思えるひと時だ。

雲の隙間から傾いた日が差し込む。全く縁のない場所をただペダルを踏む。こんなときに思うのだ。自分は何のためにここにいるのだろう、と。寂しいがそれも楽しい。なぜならば「つながっている」事を実感できるからだ。

帰宅したら家族が起きて迎えに来てくれる。孤独を味わうのはそんな家族の大切さを再認識するプロセスだと知った。